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 一之輔は小学5年で落語クラブに入り、「6年生を送る会」で一席披露したのが“初高座”だという。本格的に落語にのめり込んだのは高校2年のとき、ラグビー部を退部した直後、フラッと東京に出て、たまたま入った浅草演芸ホールで寄席の独特な雰囲気に魅せられたのがきっかけだった。それからというもの寄席や落語会に通い詰め、高校でも廃部になっていた落語研究会を復活させ、噺を覚え始める。

 落語に没頭するあまり大学受験に失敗したときには一瞬、落語家への弟子入りも考えたが、両親に諭され、一浪して日本大学芸術学部へ。ただ、浪人中も寄席や落語会には、予備校で成績トップになって得た奨学金でせっせと通っていたとか。大学入学後は、立川志らくなどを輩出した落語研究会に入り、3年のときには会長も務めた。卒業公演では彼の高座をお笑いプロデューサーの木村万里が見ており、新聞のコラムで「落語界にほしい逸材」と書いてくれた(『毎日新聞』東京都版・2001年3月14日付朝刊)。栴檀は双葉より芳し、である。春風亭一朝に入門したのは、卒業後の2001年のことだった。

「一人のおじさんが喋ってるだけのものですから」

 高校・大学時代にあれほど落語に夢中になった一之輔だが、いまでは、落語はメインカルチャーでなくてもいいと語り、SNSのプロフィールで趣味の1番目に落語を挙げているような人には「ちょっとな」と違和感を覚えるという。《落語って、そんなに大々的に取り上げられたりとか「落語だよね、やっぱり今は」っていうようなもんじゃねえよなと思うんですよ。奇跡的な空間で一人が喋ってというのは、それはすごいんだけど、裏返せば、一人のおじさんが喋ってるだけのものですから》とは、演芸写真家の橘蓮二との対談での発言だ(橘蓮二『落語の凄さ』PHP新書)。

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©文藝春秋

 そういう信条もあってか、高座での一之輔はいい意味で力が抜けている。どこかすっとぼけたというか、醒めたようなところのある語り口が、笑いを誘う。物事を客観的に捉える癖が幼少期からあり、母の職場について行っても、大人をじーっと観察したり、職場の様子を何時間でも眺めていられたりする子供だったという(『宣伝会議』2017年7月号)。

 昔から明確なビジョンがあるというタイプではなく、インタビューなどで目標を訊かれるたび、最終的には寄席で1日1回しゃべって生きていたいと答えているのがまた彼らしい。

《喋らせてもらえるということだけで、これ以上の幸せはないんです》とは、6年前に週刊誌の密着取材を受けたときの発言だが(『週刊ポスト』2017年4月21日号)、その背景には、2011年の東日本大震災の直後、予定されていた落語会の多くがキャンセルされ、緊急時には落語は必要とされなくなるのだと痛感した体験があった。このとき《同時にそういう最悪の事態を考えながら生きていかなきゃいけないな、と思ったんです》とも語っていた。その思いは、3年前にコロナ禍で寄席が休席するなか、YouTubeにチャンネルを開設し、落語の配信を始めたことにもつながっているのだろう。