45年にわたり日本の音楽シーンをリードし続けた坂本龍一。71歳を迎え、記念発売される『坂本龍一 音楽の歴史』より彼の足跡を一部抜粋。三島由紀夫の担当編集者でもあった父・坂本一亀の長男として生まれ1970年代、東京藝大に入学した日々を辿る。(全2回の1回目/後編を読む

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「学校の外の路上では何十万人規模のデモ隊と機動隊がぶつかりあっているのに…」

 藝大に入学した坂本龍一は音楽学部の雰囲気に猛烈な違和感を感じたそうだ。とくにクラシックを学ぶ同級生たちは品の良いお嬢さん、お坊ちゃん的な空気を纏まとう学生が多く、自分のようなタイプの人間はそこでは異質な存在と思えた。

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「学校の外の路上では連日何十万人規模のデモ隊と機動隊がぶつかりあっているのに、音楽学部の中はお花畑のようで、安穏とした雰囲気の中でお互い“ごきげんよう”なんて挨拶している世界(笑)。なるべく近づかないようにしていました」(※※)

Photo by zakkubalan ©2020 Kab Inc

 三善晃や小泉文夫など魅力的な教官とその授業はあったものの、坂本龍一の足は次第に音楽学部から遠のき、道を一本隔てたところにある美術学部のキャンパスに入り浸るようになっていった。

 もとより現代美術に関心があったこともあるし、美術学部の雰囲気に惹かれた。そこには自由な気風となにかしらおもしろいことが起こりそうな予感が満ちていた。

「よく憶えているのは、この頃にマイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブルー』という大作アルバムが出て、衝撃を受けたんですよ。でも、音楽学部の級友は、マイルス? それ誰? という状態で、しかし美術学部の学生はみんな聴いていたんです」(※※)

 音楽学部は時代の先端から隔絶された温室のように感じられてならなかった。こうして坂本龍一は美術学部の友人たちと芸術談義をし、みなでデモに繰り出す毎日を送るようになっていった。

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 両方のキャンパスを覗くとやはりどこかスクエアで品のよい音楽学部と、ゆるくて猥雑な美術学部という印象がいまもある。坂本龍一は卒業後40年以上経った2015年に音楽学部で一度限りの特別講座を行ない、そのときは自分が在学していた頃とはずいぶん雰囲気が変わったと口にしたが、それでも音楽学部の生徒のお行儀のよさをどこかおもしろがっているようにも見えた。