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アルバムやライヴのアレンジも手掛けるようになっていく

 坂本龍一はこの頃にはバイバイ・セッション・バンドで演奏だけではなく、アルバムやライヴのアレンジも手がけるようになっている。

「アルバムのアレンジをまかされる前にツアー・バンドに入ったんだけど、バンドに入るというのはそのときが初めて。2回目がYMOで人生2回だけ(笑)。エキストラ的な入り方で、がっちり加入しましたっていう感じではなかったけれど、入ってやりだすとぼくの性分というか、ここのコードはこうしようよとか、ここのリズムはこう変えようとか、いろいろ言いだしちゃう。なので自然にバンドの中でアレンジャー的な存在になっていきました」(※※)

 アルバム『Auroila』の中で坂本龍一はアレンジャーとしての開花を明らかにする作品をいくつか残しているが、本人としてはなかでも収録曲のひとつ「川原の飛行場」はこの後何十年も忘れ得ないアレンジとなった。

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「この曲は弦も含めた全体のアレンジはミニマリスティックなイントロから始まってリズムがずれていく、スティーヴ・ライヒ的なものも取り入れつつ、でも曲としてはポップスという曲全体の世界がうまくできた。初めて自分なり、坂本龍一印のアレンジができた記念すべき作品かなあと昔からずっと思っています」(※※)

 また、ライヴの場でも音楽監督を務めている。1976年のコンサートで、坂本龍一はコンサートのオープニングにシンセサイザーが奏でる鐘の音が欲しいと思い、日本ではまだまだ使う人が限られていたシンセサイザーのオペレーターの第一人者に相談しに行った。

YMOで大きな協力を仰ぐことになるあの男と出会った

 後にYMOで大きな協力を仰ぐことになる松武秀樹との初めての出会いでもあった。

「りりィは当時百万枚を売っていた人気者だったから、なおさらポップスの最上級のプレイヤーたちと知り合えた。ロック・フェスのような場に出たときも、対バンが上田正樹とサウス・トゥ・サウスでとてもカッコよかったり。りりィのバンドがわりとティン・パン・アレイ系に近かったせいもあっていつしか林立夫さんとかとも知り合っていた。その一方、りりィは内田裕也さんたちのピンク・ドラゴン系にも近かった。中間に位置していたので交流がさらに拡がったんですね。この人脈から後の『六本木ピットイン』時代につながっていきます」(※※)

 それはもう少し後の話となる。