レベッカ・ソルニットに『災害ユートピア』という本がありますけれども、災害が起きると、人々が助け合うユートピア的な状況が生まれる。でも、それは長期間は続かなくて、すぐに国家や資本が入ってきて、「復興」の名の下に破壊された土地を買い叩き「開発」を始めてしまう。いまのブレイディさんのお話を聞いていて、現在のような物価高や貧困問題も、実はひとつの災害であって、それを契機に生まれた「災害ユートピア」から新しいリーダーが出てくるかもしれないという可能性に思い至りました。
もちろん、だからといって、そのことをいまの困難な状況を肯定する理由にしてはいけない。また、この災害ユートピアもすぐに国家や資本によって収奪の対象にされてしまう可能性もある。ただ、だからといって、その中にある、地べたのアナキズム的ポテンシャルを見失うべきではない。
でも、複眼的にものを考え、行動するのは本当に難しいことですね。国に「何とかしてくれ」と言い続けつつ、身近な人々と助け合っていく術を見いだしていかないといけないわけですからね。
ブレイディ 難しいですよね。一方だけを切り取られると、もう一方に批判されるという側面もあるし。どっちもという立場は、非常にあいまいだし、卑怯じゃないかと思われがちじゃないですか。でも、両方要るんですよ。
國分 僕も学生に、ものを考えるときは少なくとも相反する二要素を考えないといけないとよく言ってます。一つの要素を考えているだけでは、ものを考えているとは言えない。本当は二個どころじゃなくて、三つも四つも考えなきゃいけないわけですが。
この社会の現状を考えるんだったら、国家の政策を批判的に検討し、しかるべき要求をしていくこと、その上で、様々なポテンシャルが、困難な状況のなかでも少しずつ静かに育っていることを注視し、その可能性を拡張していくこと。その二つは絶対に必要な立脚点ですね。
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ブレイディ 「何とかしてくれ」じゃなく、「何とかする」力って、『スピノザ』にあった「コナトゥス」なんじゃないかと思ったんですよ。
國分 「コナトゥス」というのは感動的な概念です。その人がその人の存在に固執しようとする力があって、それが人間の本質である、いや、人間どころか、あらゆる存在の本質だとスピノザは言っています。つまり、あるところにとどまろうとする力ですよね。生きている人が生きている状態に何とかとどまろうとするときに、ある力を発揮することがある。その力がコナトゥスです。だから、今日いろいろお話しいただいたアナキズム的ポテンシャルの話は、確かにコナトゥスの発揮にほかならないんですね。
ブレイディ 私もすごくそう思います。ミクロもマクロも、そういう力が状況を変えていくようにしないといけないですよね。