NHKの大河ドラマ『どうする家康』の影響で世の関心が高まっている武将・徳川家康。織田信長、武田信玄、豊臣秀吉といった圧倒的な強者を相手にしてきた家康は、つねに「弱者」だったという。それがなぜ、天下人となったのだろうか? そこには弱者だから取り得た戦略、ライバルからの旺盛な「学び」があるのだ。

 ここでは、日本を代表する歴史学者・磯田道史氏の新刊『徳川家康 弱者の戦略』(文春新書)より一部を抜粋してお届けする。(全2回の1回目/2回目に続く)

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なぜ信長は部下に裏切られるのか?

 なぜ家康は天下人として300年近く続く体制の礎を築き、信長は志半ばで倒れたのか。これは家康が信長から何を学んだのか、という問いに重なります。

 家康は、信長に従うなかで、多くの術を受け取ったと思います。中央=天下への入り込み方、自分にとって役に立つかどうかで判断する徹底的な合理性、火縄銃や大砲、南蛮の火薬に代表される新しい文物、技術への旺盛な興味、実力主義の組織運用術などです。

 しかし、家康の凄さは、信長の失敗、ダメな点を学んだところにあります。一言でいえば、世の「信長疲れ」を見破ったのです。さらに、豊臣秀吉も信長以上に家臣・領民の「秀吉疲れ」を巻き起こす存在でした。

 信長も秀吉も傑出した天才児で、自分のヴィジョンの現実化に躊躇がありません。そのため、家来や領民に負担を強い、どこまでも踏み込んでくるのです。家康はこの2人の天才児の下で苦労させられ、「あんなふうにやっては長続きしない」と肝に銘じたのでしょう。

信長から離反する者が後を絶たなかった原因

 たとえば信長は筆頭重臣の柴田勝家を越前国に送った際、統治の要諦を記した「越前国掟」を渡すのですが、そこには「大国を預け置くにあたって、万端に気をつかい、油断があってはいけない」として、「欲を去り、子どもを寵愛せしめ、猿楽・遊興・見物などは禁じよ」「鷹狩りはやめろ」と、細かな指導を与えたうえで、〈とにもかくにも我々を崇敬候て、影後にてもあだに思うべからず、我々あるかたへは、足をもささざるように心もち簡要に候〉、つまり信長を崇敬して、足をも向けぬよう心掛けよ、と申し渡すのです。

 他人の内面にまで踏み込み、神仏に対するような帰依を求め、無理を強いる。これが信長のやり方でした。