実際には信長も、意に沿わなかったり失敗したりした部下をみな追放したわけではなく、けっこう辛抱強く再挑戦の機会を与えたりもしているのですが、周りの者からすると、つねに耐えがたいほどの大きなプレッシャーだったことは間違いありません。松永久秀や荒木村重のように、信長から離反する者が後を絶たなかったのも、それが原因のひとつでした。
信長の下に仕える者は、どこかで「信長疲れ」を起こしてしまいます。その「信長疲れ」の総決算ともいえるのが、明智光秀の起こした本能寺の変だったといえます。
信用のフィードバック
それに対して、家康はこれ以上、他人や家臣に踏み込まないという境界線を、自分のなかで決めていたように思えます。それを端的にあらわすのが、一向宗への対応です。信長は伊勢・長島や越前の一向一揆を、万単位の犠牲者を出すほど徹底的に弾圧しました。三河でも一向一揆が起こります。
家康の家臣のなかからも一揆に与する者が出るなど、かなり深刻な事態だったのですが、家康の処置は信長とは違います。家康は鎮圧後、一揆に加わった武士も召し返します。そのなかには後に参謀として活躍し、初期の幕政の要となった本多正信なども含まれていました。農民にも、「年貢は納めろ」「一揆を起こして歯向かってくるな」、この2つだけを守れば、信仰は許し、それ以上の服従は求めておらず、大虐殺はしていません。
これは家臣団に対しても言えることで、戦場では卑怯な真似をせず、勇敢に戦え。それさえやっていれば、秀吉ほど気前よく禄はやれぬが、子孫までちゃんと面倒を見る。この姿勢で一貫しています。
家臣や領民にとって、家康はある程度、「余地」を残してくれる。この安心感は大事です。ここでも家康の「信用のフィードバック」が働いています。領民たちを信用して、その生活に過度に立ち入らず、一定の自治も認める。それによって、領民も家康の支配を受け入れ、その統治が続くことに協力するという好循環です。
相手の権益との衝突を極力避けるために
こうした家康型統治のキーワードが「棲み分け」でしょう。相手の権益との衝突を極力避ける。そこに大きな政治的メリットがあるのを、家康は信長との同盟時代に学びました。信長は西を目指す、家康は東国へ広がっていく。これなら共存共栄が可能です。どうしても権益がぶつかるときだけ徹底して戦う。これが家康の基本姿勢になります。