武田家滅亡に際し、武田家の一門でもあった有力武将の穴山梅雪が信長、家康の軍門に降ります。そのとき光秀は、穴山の口から信長に、「内々の逆意が露見するのを恐れて」、つまり武田に通じていたと暴露されるのを恐れて、「取り急ぎ謀反心を起こされた」というのです。
つまり光秀は武田との内通を武田の一族である穴山に知られており、それが信長に伝わる前に、先手を打った。そう『綿考輯録』は示唆しています。全てを信じることはできませんが、こうした証言がある以上、考慮しないわけにはいきません。
光秀と信長の関係が離れていった原因
武田は信長方の重要人物たちの間にさまざまなくさびを打ち込み、信長との離間をはかっていました。そうした調略の毒は、武田家が滅びたのちにも効いてきて、ついには信長をも殺してしまった可能性があるのです。
本能寺の変に至るまでに、光秀と信長の関係が離れていく原因として、近年、クローズアップされているのが「四国説」です。光秀は信長の命で、四国の大大名・長宗我部元親との交渉窓口を務めていました。信長が武田と戦っている間は、それでよかったのです。
ところが羽柴秀吉が中国地方の攻略を予想以上に進め、阿波の三好康長が信長に接近してきました。さらに、信長は武田を滅ぼすと、強気になり、光秀の対四国方針が嫌になって覆しはじめました。まず信長は、讃岐を三男・神戸信孝に、阿波を三好康長に与える命令を出してしまいました(「神戸信孝宛織田信長朱印状」天正10年5月7日付)。
自分より他人が優れていることが嫌いだった信長
長宗我部の四国を分割して、「織田の島」にする方向の決定でした。あわてた長宗我部は、光秀の家老を通じて「阿波の城からは撤退した。甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従う」などと、急に譲歩してきました(石谷家文書「長曾我部元親書状」天正10年5月21日付)。光秀はこれを信長に報告したはずです。
そんな長宗我部の手のひら返しは、信長には腹立たしく、それを取り持つ光秀にも信長は不信感を持ったでしょう。対四国政策で、信長と光秀は意見が対立し、疑心暗鬼に陥って、本能寺の変が起きてしまった、と考えるのが「四国説」です。
また、信長には自分が輝きたい志向をもつ家臣の僭上を許さないところがあります。しかし、光秀はもとより上昇志向の強い人です。細川家の『綿考輯録』は、光秀が信長を自邸に招いたときの話を載せています。光秀が自邸の18畳敷の広間に通したところ、信長は気に入らず、広すぎると言って食事もとらずに帰ってしまったと伝わっています。信長の屋敷には8畳より広い部屋はなく、とかく自分は他人が優っていることが嫌いだ、と捨て台詞をはいたというのです。