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 そのあと家康と穴山梅雪は信長の提案で、堺見物に出かけます。その帰路、光秀のクーデターを知ると、家康は「京師(都)におもむき、信長のために光秀を討たん。もし、いくさに利あらずんば、東山の知恩院に入って自殺せん」(『武徳大成記』)と言い出して、本多忠勝たち家臣に止められた逸話があるのですが、このとき、本気で切腹しようと考えていたのでしょうか。私は疑問だと思います。

堺より京都にいたほうが早く三河に戻れた可能性も

 これまでも見てきたように、家康はここぞという節目では、自分の言行が周りにどう伝わるか、 後世に残るかを冷静に意識しています。 大恩ある信長が襲われ、 すぐ近くにいながら、おめおめと逃げ帰ったのでは武士の面目が立ちません。「切腹する」と言っても、家臣たちが絶対に止めることもよく分かっていたと思います。

 そこで堺から伊賀の山中を通り、伊勢国から船に乗って、伊勢湾を渡り、三河の大浜に帰り着きます。これが後世「神君伊賀越え」として知られる脱出行ですが、この途中、距離を置いて移動していた穴山梅雪一行は落ち武者狩りに遭って命を落としており、相当に危険なルートだったといえるでしょう。

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 よく家康は堺にいたから助かった、幸運だったと言われますが、「伊賀越え」のリスクを考えると一概にそうとも言えません。織田有楽斎(信長の弟)のように京都の二条城にいてもちゃんと逃げられた人もいますし(『武家事紀』)、本多忠勝をはじめ優秀な家臣もついていますから、むしろ交通の便が圧倒的にいい京都にいたほうが早く三河に戻れた可能性もあります。そうなると、秀吉に先んじて光秀を討てないにしても、安土城付近まで早く兵を出せたかもしれません。

信長の死による新たな強敵との対峙

 もし本能寺の変が起きずに、信長がその後も生きながらえていたとしたら、家康は信長政権下の東の方面司令官として、東海道を東に進む役割を負わされたことでしょう。信長の本隊や秀吉、光秀は西に向かい、九州を押さえて、海外を狙う。それに対して、東の斬り込み隊長が家康というのが、信長の構想でした。そのために信長は家康に駿河の国を与えたわけです。そうなると、家康の次の敵は北条氏になったはずです。

 しかし、信長の横死によって、新しい勢力図が生まれていきます。今川義元が桶狭間に倒れると、家康の前には遠江という空白地帯が広がり、同時に信玄という強敵が立ちふさがります。信玄が死ぬと、駿河、甲斐、信濃に権力の空白が生じ、駿河に進出できました。信長の死によって、尾張という空白地帯が生じたのですが、ここで家康は秀吉という新たな強敵と対峙することになってしまったのです。