信長は人を試します。心理学に「見捨てられ不安」という概念があるのですが、「こいつは自分から離れるのではないか」という不安を抱えている人は、相手が自分を捨てないか、試したくなる。光秀は、どうもそこがよく分かっていなかったのではないかと思います。
光秀の妹、ツマキの死
その意味で、私が重要だったと考えるのは、光秀の妹とされる、御ツマキという女性の存在です。これは『信長徹底解読』(文学通信)という、多くの信長研究者の最新の研究をまとめた本でくわしく紹介されていますが、ツマキは信長の近くで仕えた優秀な女性キャリアでした。このツマキはおそらく美濃の豪族、妻木氏と関係があると思われます。
史料によると、興福寺と東大寺の間でトラブルが生じたときに、信長が裁定を行いましたが、その際に、ツマキが信長の内命を伝えたとされています。実はこの時代、朝廷でも室町幕府でも、書類の発給や外交の場で、少なからぬ女性キャリアが活躍していたのです。
ところが天正9年(1581)8月に、このツマキが亡くなってしまいます。『多聞院日記』という史料によると、〈去る7日・8日の比か、惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ。信長一段のキヨシ也、向州比類なく力落とす也〉。惟任、向州はいずれも光秀のことです。「キヨシ」はさまざまな解釈がありますが、気に入られていた、という意味でいいでしょう。
つまり、信長に一番気に入られていた妹が亡くなって、光秀は非常に気を落とした。それはもちろん妹を亡くした悲しみもあったでしょうが、この死によって、信長の気分とか反応といったパーソナルな情報が入らなくなり、光秀はますます信長の考えていることがわからなくなってしまったのではないでしょうか。ツマキの死から1年経たずして、本能寺の変は起きました。
家康が「追い腹を切る」と言った理由
さて、この章の最後に述べなければならないのは、家康にとっての本能寺の変です。
甲州で武田家を滅ぼした信長は、安土への帰路につきました。家康は信長から駿河一国を与えられます。駿河を通る信長に対し、家康は万全の準備で手厚くもてなします。ただ家康は信長に知られぬよう、武田の落ち武者をかくまいます。家康はかつて二俣城でさんざん困らされた依田信蕃に会い、自分の領内に隠しました(『依田記』)。
昨日の敵は今日の味方です。戦場で強く、道をわきまえた武士には恩を売り、味方に取り込むのが、弱者としての家康の戦略です。天正10年(1582)5月、家康は穴山梅雪を伴って、駿河を賜ったお礼に、安土を訪問することになります。