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「どんな男性が好み?」羽生善治の顔がほころんだ答えは…ステーキ屋『チャコあめみや』と“将棋界の一番長い日”

『将棋指しの腹のうち』より#2

2023/03/08

source : 文春文庫

genre : エンタメ, スポーツ, 読書, グルメ

note

 要は、テレビ側は、指し手が動くところを見せたいのである。指す瞬間を、天井カメラで撮って視聴者に見せたい、しかし、当たり前だが、指した瞬間に画面を切り替えてもときすでに遅しなのである。今のテレビのように「ワイプ」とよばれる多重画面のシステムはなかった。よってプロである我々が、ここはこの一手だから1分以内には指すだろうとか、ここはしばらく動かないとか、ここは一手進むとセットで3手は動くとか、どこも指しそうもないから大盤横カメでつなごうとか、全部その場で判断することになったのだ。

 大盤にしたって、5つある大盤の中からどれを撮影するか、こちらで決めなければならないのである。そして大盤を動かしている間に誰かが指しそうになるとそこにスイッチングする。指しそうかどうかは、棋士の横からのカメラで対局姿を見ていると、なんとなく分かるものだ。胡座だったのが正座に戻って、「指すときの姿勢」(棋士によって全然違うがそれぞれくせがある)になったら、ADさんにカメラを切り替えてもらうのである。

 普通ならテレビ側がやるのだが、これまで書いたことをよーく考えていただきたい。同じ棋士でないと絶対にできないのである。ちょっとした仕草で指すかどうかを判断するなんてテレビ側の人間に分かるわけがない。指し手の意味ですら分からないわけで、全部こちらでやるよりないのだった。

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 生放送が始まり2時間が過ぎ、12時を越えると、指し手がばんばん進むので、そこは少し楽になったが、もっと大きな問題が我々に降りかかってきた。

 投了の瞬間を撮影しなければならんのである。「負けました」と投了して一局が終わる。それが画面に映らないのでは、なんともしまりが悪いのだ。それは分かる。しかしですね。

 そんなことを言われたって困るのである。大差の将棋でも投げないこともよくある。詰まされれば投了するが、その一歩手前だとその場によるとしか言いようがないのだ。これも横カメの空気を読み取って判断するよりない。

 指しそうになったら天カメ、投了しそうになったら横カメ、その間に大盤解説。無理を言っちゃいけないのである。大盤で指し手を追うといっても、カンペがあるときもあるが、基本は頭の中だけが頼りである。もちろん矢内は精一杯助けてくれた。ただ彼女は司会であり、決まり文句を言ったりするのが大変なので、手伝おうにも限界がある。それに、羽生と私が異様な興奮状態にあるので、ついてくるのがキツイのである。

 妙な言い方だが、羽生、先崎は棋士の中でも仕事ができるふたりである。まだ若い棋士が対局以外の仕事なんてとんでもないという時代から、キツイ仕事をこなしてきた。まだ、将棋界も地方の支部も、テレビ業界も荒っぽいころから、しんどい現場を踏んできた。彼は、20歳から後はタイトル戦を指すことが多くなったので、回数は少なくなったが、お互いで組めばどんなことも平気だという感覚があった。だからこのときも、たぶん我々は相手に頼るところが大きすぎたのだ。

 で、倒れた。

 12時半くらいに最後の将棋が終わって、矢内がひとりで場をつなぐということで、30分ほど我々は休憩に入った。

 そこへNHKのスタッフが来て言った。「羽生先生、これから森内先生とふたりで出演していただけませんか?」

 そう、いましがた名人戦の挑戦者に決まった森内俊之くんとふたりで決意表明だかなんだかをやってくれ、と言うのだ。NHKのスタッフも興奮状態にあり、イケイケだったのだろう、引き受けるのが当たり前だという風情だった。

 テレビの人間は押しが強い。羽生にずかずかと踏み込んでいく。

 羽生は敢然と断った。ひと言だった。「これから闘う相手とは出られません」。その顔には、自分たちは戦士で、使われるコマじゃないんだ、と書いてあった。私も、名人にこんなキツイ仕事をさせてなんてことを言うんだ、と思った。NHKのスタッフはあろうことか私にも言ってきた。「先崎先生からもお願いしてもらえませんか」

「絶対に嫌です」

 現場に戻り、マイクがオフになったときに矢内が私の耳元でささやいた。「よかった、ふたりの場なんてとても仕切れません」

 アナウンサーならばともかく、彼女は棋士であるから、名人と挑戦者のトークの司会をするというのは、とてつもなく厳しいことなのだ。