1ページ目から読む
4/4ページ目

疲れ切った羽生善治との意外な会話

 最後に10分の休憩があった。

 将棋会館の地下での収録である。狭いスペースはスタッフだらけで、控え室もなかった。羽生の姿がない。ペットボトル+サンドイッチなどが置かれているところに行って、お茶を飲んでいると羽生が来た。紙コップになみなみとお茶をくんで、私にもお茶をついでくれた。「キツイなあ、これは」と私、「そうだね」と羽生。彼のお茶を注ぐ手がかすかに震えていた。

 それっきりふたりとも口を開くこともなく、何回かお茶をつぎ合った。そしてなんとなく床に腰を下ろした。スーツだったからといっても座るべき状況であることはたしかだった。羽生は床に座ってうつむいている。かける言葉などなかった。私は羽生ほど我慢強い人間を見たことがない。この場で疲れただのキツイだのとグチをこぼしてなんになろう。私は気がつくと自分でも意外なことを口に出していた。

ADVERTISEMENT

「チャコのステーキ、おいしかったなあ」

 瞬間、彼の声があの元気な甲高いものとなった。

「うん、おいしかった」

「あのステーキのおかげで、いい仕事できたなあ」

「うん、ちょっと疲れたけどね」

 本当に冗談抜きで、彼の口から疲れたという言葉を聞いたのはこの時だけだと思う。

 帰るときも、羽生はみんなにお疲れ様でした、と言って帰るのだが、私に対しては「先崎くん、ありがとう」と言って帰った。仕事の後にありがとうと同輩の棋士に言われたのは、あのときだけである。

 チャコを総括すると、やはり男は肉の塊が好きだ、ということである。ある日、突然に私がひとりずつではなく塊でくれと言わなかったら、またその無茶な注文を店が快く引き受けてくれなかったら、私のチャコに対する印象は、もちろん悪いものにはならないが、大分違ったものになったろう。4人、3人、ふたりで、食べた塊。ひとりで食べた若者も大勢いた。若き勝負師たちの闘う本能を肉というジャンルで満たしてくれている店がチャコである。

将棋指しの腹のうち (文春文庫 せ 6-3)

先崎 学

文藝春秋

2023年3月8日 発売