先日、鹿賀丈史に取材させていただいた。芝居での印象と同じく堂々たる風格と洒脱さを合わせもった「大人の男」の雰囲気が漂う方だった。
その一方で、お話をうかがいながら思ったことがある。
とにかく、本心の底が読めないのだ。その発言が本気なのか、冗談なのか。真意なのか、煙に巻こうとしているのか。推し量ることがなかなかできずにいた。ただ、それは決して嫌な感じではなく、可愛らしさすら覚えていた。
その飄々とした掴みどころのなさこそが、この人の役者としての魅力に直結しているようにも思えた。心の奥底を感じ取らせずに相手を手玉にとる。そんな芝居は鹿賀の得意とするところだからだ。
その最たる作品が、今回取り上げる『麻雀放浪記』だ。
舞台となるのは、戦後すぐの東京。主人公の「坊や哲」(真田広之)は原作者の阿佐田哲也自身をモデルにした青年で、日々麻雀に明け暮れる。そんな哲と、彼を取り巻く勝負師たちとの人間模様が描かれる。鹿賀が演じるのは哲に賭け事のイロハを教える兄貴分的な存在の通称「ドサ健」だ。
この男が、実に読めないキャラクターなのである。たとえば、初登場の場面。オンボロの賭場でチンチロリンに興じているのだが、周りの客はみんなみすぼらしい出立ちにもかかわらず一人だけ革ジャンにネッカチーフというオシャレぶりで、とにかく目立つ。そして、いきなり「一回は見送れ」と哲にアドバイスを送ってくる。周囲に白い目で見られようが、どこ吹く風だ。
それ以降も、あらゆることを衒いもなく悪びれもせずシレッと言ってのけるし、やってのけるのである。哲と麻雀に出かければ、表だけ本物の白紙の札束を“見せ金”にして参加、自分だけ勝ったら哲を置き去りにして帰り、その後で「よーう」としゃあしゃあと明るく声をかけてくる。
麻雀の金を作るために恋人を女衒(ぜげん)に売った際は「あいつと死んだお袋と、この二人だけには迷惑かけたって構わないんだ」と開き直る。麻雀の最中に相手が急死したら、「死んだ奴は負けだ」と身ぐるみをはがす――。
そんなダメなあれこれを、「当然のこと」であるかのようにクールなまま振る舞っていくドサ健。それでも鹿賀は「決して悪い人間ではない」と捉えていたという。実際、その言動はことごとく酷いのに、実にチャーミングに見えてくるのだ。それは、鹿賀自身の放つ「どこまで本気か分からない」感じのためにドサ健の言動が冗談めいて映し出され、ユーモラスなものとして浮かび上がるからに他ならない。
読めない役者の演じる、読めない役。なんとも魅力的だ。