1ページ目から読む
3/4ページ目

自分として生きる覚悟

 大学4年の5月。内定はもらったものの、胸があることだけは、やはり許せなかった。

 このままで生きることは、もうできない。

 両親にカミングアウトをしてからもうすぐ2年。

ADVERTISEMENT

 ずっと話はしてきたけど、結局、具体的には何も進まなかった。

 自分も、もう限界だ。と思い、障害に関することと、手術に向けて必要な資料を準備した。

 親に許されていないから、きっと、この資料も受け取ってはくれないだろうけれど。

 それと、もう1枚。泣きながら書いた、両親への手紙。

 やっぱり、どうしても、わかってほしかった。

 これまでの2人の様子から、直接渡すなんてとてもできなくて、手術に関する資料の一番後ろに、そっとしまった。

両親への手紙

オトンとオカンへ

 

 自分が最初にカミングアウトをしてから2年経ちましたが、私が性同一性障害であることは、きっと2人の中ではまだまだ受け入れられないことだと思います。

 

 私が最初にカミングアウトした時に、非難、否定されたこと、それも全て子を想う親として当たり前の反応であることもわかっています。そしてそのようなリアクションが返ってくることもわかっていました。悲しませることも、苦しませることも全てわかっていたからこそ、ずっと話すことができませんでした。2人に感謝しているからこそ、このように生まれ、2人の意に沿う生き方を選択できないこと、本当に申し訳なく思っています。本当に、本当にごめんなさい。

 

 オカン。盛岡で大やけどを負った時も、必死で看病をし、今では傷も見えないほどに治してくれましたね。風邪をひいた時、インフルエンザの時、薬も飲まさずに近くに寄り添って看病してくれましたね。中学で骨折をして手術をした時も、脱臼をした時も、毎日病院に連れていって、夜、傷が痛くて泣いている自分を見守ってくれました。それに加えて、毎日手作りのごはんをつくったり、洗濯、掃除、送り迎え……あげたらキリがないほどの愛情を注いでくれたオカン。本当にありがとう。

 

 そして、そんなオカンを、家族を支えてくれたオトン。あなたは本当にすごい男であり、人間であり、父親であり、心から尊敬しています。きっと怒りたいことも山ほどあったでしょう。泣きたいことも山ほどあったでしょう。それでもオトンはそんな辛いところを一度も見せずに、黙って努力をしていたと思います。そして黙って、私のことを見守ってくれていましたね。そんなオトンの「背中で語る」姿は私にとって誇りであり、憧れです。言葉がなくてもたくさんの愛情を注いでくれたオトン、いつもありがとう。

 

 こんな立派な2人に育てられ、本当に自分が恵まれて生まれてきたのだと思いますし、感謝してもしきれない恩を感じています。でも、私はそれだけでは生きられないんです。「なぜ?」と思うかもしれないし、理解できないことだとわかっています。私自身「なぜ?」という感情を高校、中学、小学、そして幼稚園から抱きつづけ、そう思ってしまう自分を責めつづけてきました。身体への嫌悪感、自分が思っていることと違う感情を話さなければいけない葛藤、「変」というくくりで見られることへの恐怖、期待に応えられない絶望感、自分でない自分で生きなければ生きてはいけない辛さ。きっと理解されないことだとわかっていますし、わからない人に腹が立つこともありません。ただ、「今のままで生きられない」、ただ、ただ、それだけなんです。本当にごめんなさい。謝ることしかできません。

 

「産んでもらって何言ってんだ」そんな気持ちも痛いほどわかります。でも、本当にごめんなさい。私の気もちが変わらないのは事実です。2人がどんなことをしても私はこれだけは譲れません。これを譲ったら私は人間でいられないから。ごめんなさい。私は私の生き方で次の世代の子どもたちへ、次の世の人たちの生き方を考えていきたい。だから本当にごめん。でも、これだけは言わせてください。勝又家に産んでくれて、そして、オトンとオカンに出逢わせてくれてありがとう。

 美穂

 こんな裏切りのような文しか書けない自分の存在が、やっぱり憎かった。

 でも、そうしなければ生きていけないことも事実だった。

 ただ、今の今(30歳になった今)まで、話題に上がってきたことがないところをみると、おそらく、資料も含め、手紙も読んでいないのではないかと思う。