――そうだったんですね。ガッツさんが芸能界で一番怒った場面っていつですか。
ガッツ 別段まともに相手にしてないから怒らないよ。芸能界という社会に俺が入り込んでんだから、ルールは芸能界のもの。それに付き合って「ちょっと違うな」と思ったら、知らないふりしてそっちに寄らなきゃいいんだから。 そういうのは、やっぱり人と違ったんじゃないかな。
芸能界の人たちに媚びも売ったことないしね。ただ番組に知っている人が出ていたら必ず仕事前に控室に行って、「ガッツです、よろしくお願いします」とあいさつする。それがガッツ石松の生き様。逆に自分が少しでも売れると、そういうことをしないやつが多いんだよ。
その生き様を見て「ガッツ石松はバンカラだけど、ちゃんとあいさつができるやつだ」と次も仕事で使ってくれる。もし反対の立場だったら、相手にそうされた方が気分がいいじゃない。
朝ドラ「おしん」への出演が俳優としての転機に
――ガッツさんは俳優としての一面もあります。転機となったのはどの作品ですか。
ガッツ やっぱり橋田壽賀子さんが脚本を書いた「おしん」(1983)の的屋の親分・健さんだね。高倉健さんの健からとって健さん。
橋田さんの旦那さんはTBSのプロデューサーの岩崎(嘉一)さんでね、私のファンだったの。橋田さんもバラエティー番組で私を見てたんだけれど、当初は私のことは好きじゃなかった。でもね、旦那さんが「『僕さあ、ボクサーなの』とか言ってるけど、あれは本当のガッツ石松じゃない。実際は世界チャンピオンですごい人なんだ」と一生懸命、売り込んでくれた。
橋田さんも「あんたがそこまで言うんじゃ、間違いないだろう」って、ちょっとだけ出すかと脚本を書いてくれたの。
――それが1981年に放送されたNHKの大河ドラマ「おんな太閤記」ですね。
ガッツ 「おなごじゃ、おなごじゃ」って、それが初めてのセリフ(笑)。撮影って演技もそうだけど、人間性もみんな見るじゃない。そういう素のガッツ石松を橋田さんも認めてくれたんじゃない。
「おしん」で演じた健さんは、ガッツ石松を地でいく感じ。天下のNHKが朝の連続テレビ小説で使ってくれたこともあって、その後も俳優の仕事がどんどん増えたね。
「スピちゃん」に会いたいと言われハリウッドに
――日本国内だけでなく、スティーブン・スピルバーグ監督の「太陽の帝国」、リドリー・スコット監督の「ブラック・レイン」とハリウッド大作にも出演します。
ガッツ スピちゃんね。私はロベルト・デュランとも戦っているので、日本のテレビでバカなことをやっているけど、実はしっかりした人間だって伝わるのよ。デュランも「スズキはそんなバカなやつじゃねえ」と話してくれるからいろんな人の耳に入る。
それでスピちゃんが興味を持って、私に会いたいとなった。「会ったらなんかくれるんか」って聞いたら「それは出ないんだけど、オーディションだ」って。オーディションはやったことないけど、アメリカはみんなそうなんだと聞いたから行ってね。ボクシングの話ばっかしてたよ。
ハリウッドはギャラもよかったね。日本の2倍、3倍は違う。それにホテルから運転手付きのハイヤーで移動だから。他の役者とはテリトリーが違うんですよ。ガッツさんを向こうが選んだんだから。