パックン 母は本当にやりくり上手で、食費は1食あたり89セント(約100円)に抑えていたようです。2人でも1日600円くらいかな。普通の牛乳なんて買えないから、安い脱脂粉乳を飲んでいました。3ヶ月分くらい入った大きな箱で買っても、12ドルなんですよ。
他にも、安く手に入るターキー(七面鳥)のひき肉に、ビーフ味のコンソメをかけた「ハンバーガー」を食べたりとか。食費を最低限に抑える術は母から学びましたね。
夜中に母のすすり泣きが聞こえてきたことも
——食費以外も工夫されていたのですか。
パックン 毎年2月は、その後1年間の水道料金が決まる時期なので、節約のために「トイレは学校で済ませて来い」って母に言われて、1ヶ月ほど家で用を足せなかったこともあったな(笑)。いま冷静に考えたらちょっとどうなのって思うけど、当時は生きるのに必死だったからね。
——当時の生活を振り返って、どのように感じますか。
パックン もちろん、辛い場面はたくさんありました。夜中に母のすすり泣きが聞こえてきたこともあったし、母が遅くまで帰ってこないときは、僕も不安を紛らわせるためにお天気ダイヤルに電話したこともあった。あれ、すごく優しい声が聞こえてほっとするんですよ(笑)。
それでも電気やガスが止まったことはないし、屋根がついた家に住むこともできていた。世界には1日2ドル以下の暮らしをしている人が大勢いると考えると、僕は“相対的貧困”だから、まだラッキーなほうだったのかもしれません。しかも、母のおかげで、“相対的貧困”の中でも「恵まれた生活」ができていたと感じます。
それに、僕は母からたくさんの愛情を受けて育ったから、貧しくとも惨めではなかった。高価なものは食べていないし、良い車にも乗っていない。でも、週末にはキャンプへ行ったり、友達と遊んだり。
母はお金がない中でも、僕の人生を豊かにするために色々な経験をさせてくれました。そういった意味でも、すごく「恵まれていた」と感じます。
——お母様と二人三脚で乗り越えてきたんですね。
パックン 母からは、逆境に屈しない精神を学びました。障害や困難を、知恵や工夫でいかに前向きに乗り越えるか。僕にとっては、日々の小さなチャレンジが一種の“ゲーム”みたいで、良い刺激になったんです。当時の母は毎日を生きるのに精一杯で、“ゲーム感覚”なんかじゃなかっただろうけどね。