全国トップのチームで基礎をしっかり積み上げ、世代別代表に。そして、U18でともにプレーした並里成がスラムダンク奨学金第1期生に選ばれたことを知り、「アメリカでプレーしたい」という目標への道筋が具体的に開けた。作本監督には「日本の大学でプレーした方がいいのでは」と言われたが、第2期の奨学生に自ら応募した。
「最終トライアウトではピックアップゲームをしたんですが、自分をはっきり出せたかというと納得いってなくて。帰国する時は“これはジミーに取られたかな”という感覚でした」
ともに応募していた早川ジミーは福岡第一高校。全国レベルの大会で何度も対戦し、代表チームでもいっしょだった。おちゃらけてはいるが、ことバスケットに関する熱心さは群を抜いている。だから彼に奨学生の座を取られることも覚悟していた。が、結果は二人とも合格。心強い戦友とともに希望の地・アメリカでプレーするチャンスを得た。
「でもまあ、どん底からのスタートでした」
期待に胸を膨らませサウスケントスクールの門をくぐったとたんに、谷口はコーチからショッキングな一言を突き付けられる。
「初日にコーチ・ジェフ(ケルビン・ジェファーソン)から『お前はセンターでは出られない』と言われて。練習でもピックアップゲームで僕とジミーだけ最後に残る。仲間外れにされるんです。当然開幕戦もプレータイムは0。試合に出られない苦しみを初めて味わいました」
自らに課した我慢
アメリカに来ていきなりセンター失格の烙印を押されたことは、意外にすんなり受け入れられた。
「日本でも外国人留学生がセンターを務める高校はありましたし、当時の実業団でもインサイド(※1)は外国人の選手が多くて。インサイドの日本人選手の需要ってどうなんだろう、とはもともと考えていたことでした。それにヘンにプライドがあると足枷になる、とはずっと思っていて。プライドを持っている選手は当然リスペクトしますが、当時学生の僕がそんなものを持っている場合じゃない。もっと上手くなるために来たのだから、と切り換えました」
人目を気にすることで、あまり調子に乗っていると思われたくない。この深層心理からくる謙虚さがここでは吉と出たか。しかし─。
「ジミーはジミーで悩んでいるから、一人で悩まなきゃ、自分で解決策を見つけなきゃ、とヘンにこだわってました」
問題を自分で抱え込んでしまう習性が、この先自身を苦しめることになる。