『SLAM DUNK』の作者、井上雄彦さんが「バスケットボールというスポーツに恩返しがしたい」という想いのもと創設したスラムダンク奨学金。

 2008年に第1期生として派遣された並里成選手を始め、高校卒業後もプレイを続けたい有望な選手を何人もアメリカへ送り出してきた。現在は第17期生を選考中である。

 ここでは、この制度を活かしアメリカのプレップスクールに留学した奨学生14名へのインタビューをまとめた『スラムダンク奨学生インタビュー その先の世界へ』(集英社)より、第13期生の須藤タイレル拓選手のインタビューを一部抜粋して紹介する。

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 20年にスラムダンク奨学生として留学し、22年にはNCAAディビジョンI所属のノーザンイリノイ大学へ進学した須藤選手。亡くなった父と支えてくれる母からもらう原動力とは――。(全4回の4回目/最初から読む

須藤タイレル拓さん 写真は取材当時(2021年)のものです。撮影/Charles Milikin Jr

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『俺が亡くなっても強く生きろよ』

 須藤タイレル拓がバスケットボールを始めたのは、まったくの偶然だった。小学4年のとき、友だちから人数が足りないからと頼まれ、1週間だけ練習して試合に出た。それまでバスケットボールをやったこともなく、まったくの素人。初めて出た試合の内容は、ほとんど記憶にないという。ただ、シュートを1本決めたことと、そのときにすごく嬉しかったという気持ちだけは鮮明に覚えている。

「何回も何回も失敗しながら、成功したときのまわりの応援とか、自分の中の『よっしゃ、成功した』っていう気持ち。何かすごく嬉しかったです」

 思えばそれからずっと、そのときと同じような喜びを求めてプレーし続けている。

「できないことができるようになるのが嬉しくて、それがもっとうまくなりたいというモチベーションに変わる。いろんなスポーツをやってきた中で、一番必死になれて、うまくなろうと思えたのがバスケでした」

 バスケットボールの前にはサッカーや野球をやってみたが、どちらもしっくりこなかった。そんな中で出会ったバスケットボールに、夢中になった。そしてバスケットボールに導かれるように、人と出会い、人生が変わっていった。

 子どものころの夢は歌手になることだった。父の影響だ。アメリカ人の父はプロの歌手で、バンドのボーカルとしてライブハウスなどで活動していた。子どものころに風呂場で歌っていると、リビングルームから父が大声で叫んできて、歌の指導をされたことを覚えている。

 その父は、須藤が10歳のときに病気で亡くなった。それから10年の年月がたったが、悲しみが薄れることはなく、むしろ喪失感が増しているようにも感じる。

「これから先、何年生きたところで、その事実は変わらないです。お父さんがいたらよかったなと思うときも多々ありました」

 そんなときに支えとなったのは、生前の父からよく言われていた言葉だった。