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「最初はバカにされるんです。小さいしアジア人だし」“スラムダンク奨学金”1期生がアメリカで直面した、想定外の高い壁

「最初はバカにされるんです。小さいしアジア人だし」“スラムダンク奨学金”1期生がアメリカで直面した、想定外の高い壁

『スラムダンク奨学生インタビュー その先の世界へ』より#1 並里成選手編

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『SLAM DUNK』の作者、井上雄彦さんが「バスケットボールというスポーツに恩返しがしたい」という想いのもと創設したスラムダンク奨学金。

 2008年に第1期生として派遣された並里成選手を始め、高校卒業後もプレイを続けたい有望な選手を何人もアメリカへ送り出してきた。現在は第17期生を選考中である。

 ここでは、この制度を活かしアメリカのプレップスクールに留学した奨学生14名へのインタビューをまとめた『スラムダンク奨学生インタビュー その先の世界へ』(集英社)より、第1期生の並里成選手のインタビューを一部抜粋して紹介する。

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 その後に続く奨学生たちの模範を示した開拓者は、自分とアメリカと、バスケットの間に何を見出したのか――。(全4回の1回目/続きを読む

写真は取材当時(2019年12月)のものです。撮影/伊藤亮

◆◆◆

パーフェクトなタイミング

『月刊バスケットボール』にあった一片の広告。何の変哲もない限られた枠のモノクロ広告だったと記憶している。しかし、当時高校2年生の並里成は「運命だ」と感じた。見せてくれたのは福岡第一高校の井手口孝監督だ。

「僕がアメリカに挑戦したい思いでいることを井手口先生は知っていて、ずっと動いてくださっていました。面と向かっては言われないんですけど、裏で『先生は本当にお前のこと考えてくれてるぞ』とか『アメリカへの道を探してくれてるぞ』という話は聞いていたので。そうしたらある日、先生が『これ、応募してみるか』と見せてくれたんです」

 井手口監督が差し出したページにあったのは、スラムダンク奨学金第1回奨学生募集の広告だった。

「たしか高校3年に進級する前の2月くらいでした。ちょうど僕が卒業する年から始まるということで、先生が見つけてくださったんです。見てすぐ『はい、挑戦してみたいです』と返事をしたら、すぐ動いてくださって」

 並里成は沖縄市コザで生まれ育った。兄の影響で、幼稚園の頃には既にバスケットボールをついていた。同地域には米軍の嘉手納基地がある。並里が幼少期の頃は、地元の人が「6チャンネル」と呼ぶアメリカ軍放送網(AFN)をテレビで視聴できた。

「6チャンネルで中継されるNBAを、テレビ越しでありながら身近に感じて育ちました。だから小学校低学年くらいにはNBAに憧れてましたね。これは僕に限った話ではなく、同級生もみんなそうで、憧れの選手のマネをしたりして、NBAへの夢をよく話してました」

 バスケットに夢中になる環境がそろっていた中で、並里はその実力をぐんぐんと伸ばす。

「バスケットへの愛は誰にも負けなかったと思います。一番になりたい、上手くなりたい向上心で小学生の頃は24時間365日、ずっとバスケットのことだけを考えて、身体のメンテナンスもしてました。正直、中学生の時は思春期でもあり、プライベートを削ってまでもバスケットはしていなかったんですけど」

 コザ中学校3年時に全国中学校バスケットボール大会でベスト8。複数の高校から誘いを受けた中で、福岡県にある全国屈指の強豪・福岡第一高校へ進学することを決意する。

「井手口先生が2、3回沖縄に足を運んでくださった熱意と、チームの試合をDVDで見て。あと当時、沖縄で九州大会があったのですが、そこで生観戦して団結力を感じさせるチームカラーに惹かれました。そして最後の決め手は、留学生がいたことです」

 将来NBAでプレーするならば、早いうちから海外の選手とともにプレーした方が得策だろう、という判断だった。

「自分の夢はアメリカでバスケットをすること。中学生の時は沖縄を代表して県外か海外に挑戦したいと思い描いていました。そしたら福岡第一高校に声をかけてもらってスムーズにいった。なので、同じように高校を卒業したら今度は海外に出ようと考えていたのですが……」

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