『SLAM DUNK』の作者、井上雄彦さんが「バスケットボールというスポーツに恩返しがしたい」という想いのもと創設したスラムダンク奨学金。

 2008年に第1期生として派遣された並里成選手を始め、高校卒業後もプレイを続けたい有望な選手を何人もアメリカへ送り出してきた。現在は第17期生を選考中である。

 ここでは、この制度を活かしアメリカのプレップスクールに留学した奨学生14名へのインタビューをまとめた『スラムダンク奨学生インタビュー その先の世界へ』(集英社)より、第2期生の谷口大智選手のインタビューを一部抜粋して紹介する。

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 幼少時から高さを武器に重宝されトップであり続けた谷口選手。しかし、武器は諸刃の剣でもあった――。(全4回の2回目/続きを読む

谷口大智選手

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ビッグ・ダイチの憂鬱

 人目が気になってしょうがない。それは性格でもあるし、思春期の入り口で経験したことが助長させたともいえる。

「もともとグイグイ前に出るタイプではなかったんです。それが取材で取り上げられ、メディアに出るにつれて、嬉しい反面、思春期だったので“他人にどう見られているんだろう?”と気になって……。いろんな話が耳に入ってきたりもしたので、あまり調子に乗りたくない、いろんな人に何か言われるのが怖いと思っていた時期がありました。それこそ魚住じゃないですけど」

『SLAM DUNK』で“ビッグ・ジュン”こと魚住純が、

「デカいだけじゃんアイツ」

 という仲間の陰口を聞いてショックを受けるシーンがある。“ビッグ・ダイチ”と呼ばれていた谷口大智にとって、他人事ではなかった。

 小学6年生で191㎝。ミニバスではセンターで敵なしだった。当然目立つ。テレビで取り上げられ、一躍有名に。しかしテレビに出ると、家に見ず知らずの人から「あまり調子に乗るな」という電話がかかってきた。以来、新たな取材依頼は断るようになった。進学予定だった中学でも、入学前から「目を付けられている」という話が。そのこともあって、ミニバス仲間のいる別の中学校へ転校した。

 小学校、中学校と全国大会へ進出し、京都の洛南高校ではウインターカップ3連覇。ベスト5にも選ばれ、U15、U18と世代別代表でもプレー。代表チームではキャプテンを任されたこともある。強豪チームで常に中心選手──誰もが羨む栄光の数々。しかしその陰で“人目”は常について回ってきた。

「バカなところで真面目というか、そこまで考えすぎなくてもいいのに自分で自分を追い詰めてしまう。周囲は『気にすることじゃない』『もっといい部分を見てもらえるようにしていけよ』と言ってくれます。でもヘンなところを気にするというか、八方美人というか。みんなに好かれる自分を目指していたんですね」

スラムダンク奨学金第2期で選出された二人

 アメリカは、ずっと憧れだった。NBAのスター選手に憧れていたわけではない。

「バスケを本格的に始めたのが小学4年生の時。その時、親に『アメリカはトップ選手が集まるバスケの本場なんだ』とちらっと言われて。どうせやるならトップレベルでやってみたい、というシンプルな動機です。でも、そこからマインドが変わりました」

 実は、アメリカの高校進学を志して中学3年時に1か月アメリカを巡っている。バスケ一家の谷口家、人脈は広い。父のつてでロサンゼルスの日本人の知り合いの家にホームステイし、同世代のアメリカ人選手とともに練習した。

「誘ってくれた現地の高校もあったんですけど、あまりにも英語が喋れなかったのと、バスケの基礎をもっと身につけないといけない、と大人たちが判断して。それでビッグ・マンを育てることが上手で、基礎をしっかり教えてくれる洛南に行こう、と決めました」

 この決断は正解だった。

「中学生になって、自分より能力の高い選手が出てきていたのは感じていました。全国レベルでは、背が高いだけでは通用しない。どうにかしたいけど、どうにもできなくて悩んでいました。その時、ただガムシャラではなく頭を使わないといけない、と教えてくれたのが洛南の恩師、吉田裕司先生と作本信夫雄先生でした」