1ページ目から読む
2/3ページ目

「僕が小さいころからずっと『強く生きて、お母さんを大切にしろ』『俺が亡くなっても強く生きろよ』って言われていました。まだ全然元気なときから。だから、頑張ってずっと強く生きています。この言葉はお父さんからの、一番でかいアドバイスですね」

 今も歌は大好きで、風呂場で毎晩大熱唱している。歌声を聞いたことがある人によるとかなりうまいらしい。レパートリーは幅広い。

「バラード、R&B、ポップスなど、色々歌います。滑舌が悪くて舌が追いつかないので、ラップだけは成長がゆっくりですけれど」

ADVERTISEMENT

 今も父のようにプロの歌手になりたいという気持ちはあるのかと聞くと、「バスケが無理だったらそっちって、もう決まっているんで」と、まんざらでもなさそうに笑う。

「お父さんの大親友がいて、その人にずっと、人生のプランBは歌手だって言われてるんで。だから、もしバスケでやっていけなくなったり、引退したら歌手に転向するっていう人生プランが、勝手に立ってます」

(中略)

体感で自分より40㎝でかそうな人が猛スピードで突っ込んでくる

 成長という面では、中学のときにプロの選手たちに個人指導してもらったことも大きかった。ビー・コルセアーズのユースチームで出会った親友の高橋幸と共に、当時のビー・コルセアーズの選手たちにレッスンをしてもらっていた。そこで学んだのはシュートやドリブルなどのスキルだけではなかった。プロの選手と対峙することで、無意識のうちにプロ選手の意識に触れていた。

今も昔も、最大の武器はスピードと瞬発力。アメリカではサイズで劣る分、スピードだけは誰にも負けないように意識して走っている。撮影/Charles Milikin Jr

「プロの選手たちは『こいつを絶対に倒してやる』っていう、闘争心がすごく強いのを感じました。自分はそのころ、まだバスケを遊び程度に楽しくやっていたんですけれど、幸といっしょにプロの選手と関わっている中で、『こいつらに負けたくない、負けちゃいけない』っていう意識がついてきましたね」

 アメリカに行ってバスケットボールをすることを考え始めたのも、そうやって学校の部活を超えて色々な人たちと交流した影響が大きかった。それまでは考えたこともなかったが、外からの刺激を受けたことで、目指したいという気持ちが湧いてきたのだ。そんなとき、ユースチームで二つ上の先輩、小林良がスラムダンク奨学金でアメリカに留学したと聞き、「そういう制度があるなら、自分もそのときになったら挑戦してみようかな」と思い始めた。

 そして高校2年のときに応募。トライアウトを経て合格したという通知が来たときは、嬉しさよりも驚きが大きかった。

「信じられなかったですね。『え?』っていう感じで、頭の中が真っ白になりましたもん。お母さんが嬉し涙流して、すごい跳びはねて抱きついてきて、僕は『受かったけど……マジ?』みたいな感じでした」

 アメリカで行われた最終トライアウトでは、セントトーマスモアの現役選手たちに交じってプレーした。それは、まったくの別世界だった。この頃には須藤の身長も180㎝近くまで伸びていたが、それでも小さいほうだったのだ。

「2m超えの選手がふつうにリバウンド取って、オールコートでドリブルしてくる。体感で自分より40㎝でかそうな人がドリブルして猛スピードで突っ込んでくるから、本当に怖くて。でも、そこに立ち向かっていく自分もいて。ここのほうが日本より絶対レベルアップできるなっていうのは心の底から感じましたね」