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 同じく陸前高田市で被災して大船渡に移住した仲間たちと目指した甲子園。大船渡高校3年生のときに高校野球最速の163kmを叩き出して全国区になった。しかしこの特別な才能を花開かせるために、絶対にムリはさせないという当時の大船渡高・國保陽平監督の方針で、夏の岩手県大会決勝戦で登板回避。高校野球だけではなく、日本中に論議を巻き起こすことになった。ドラフト1位でロッテに入団後も、1年目は登板機会なしで体作りに専念して、これまたさまざまな意見が飛び交う論戦を呼んだ。

 一方でそういう周囲の喧騒をよそに、佐々木は投手として確実に成長し、その特別な才能を伸ばしてきた。3年目の昨シーズン4月に史上最年少での完全試合を達成。そして日の丸を背負ったこの日のマウンドへと辿り着いたのである。

 ただ彼が背負ってきたものは、あまりに重かったのかもしれない。

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彼がずっと背負い続けてきたものの重さ

 宮崎キャンプから取材をしてきて、ずっと感じることがある。佐々木は取材を受けていても、他の選手のようにあまり笑わない。常に伏目がちで、どこかに影を背負ったように、俯き気味に言葉少なだ。

「この満員のドームの中で投げることができて嬉しいです。イニング途中で代わってしまったり、球数がかさんでしまったんですけど、どうにか最少失点で投げることができてよかったと思います」

 勝利を飾った東京ドームのお立ち台でもそうだった。試合の興奮もあり喜びを爆発させる選手が多い中で、佐々木の言葉は穏やかだ。その笑顔は国際試合でのデビュー戦を白星で飾った21歳としては、控えめなものだった。

 そこにむしろ、彼がずっと背負い続けてきたものの重さを感じざるを得ないのである。

 この特別な日に佐々木が投げることは、チームが編成されたときから栗山監督が決めていたことだった。

この日に登板することはチーム編成時に決まっていたという ©️時事通信社

「僕らに何かできることはないんです。でも時間が経っていても、いま悲しい思いをされたり、苦しい思いをされている方が、一瞬でもそれを忘れていただけるようにと思って、今日の試合に臨もうと思った」

 栗山監督はこの日の試合の意味をそう語り、佐々木を先発させた思いを説明した。