料理は命に関わり、自然の摂理と共にある――。料理研究家・土井善晴氏による「和食文化を救う一汁一菜」(「文藝春秋」2023年4月号)の一部を転載します。

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「人間は料理する動物です」

 豊かな自然を背景に食は、とくに飢饉や戦争などの状況でなければ、土地にある風土に導かれ「このあたりにあるものを食べる」ということである程度は満たされていたのでしょう。近代に入って、豊かになるにつれ、多くの食が商品化され、人々は情報から学び知り、だんだんとおいしいものを容易に求められるようになりますが、満足を知らない欲望は、もっと新しいもの贅沢なものを欲しがって、日常的においしいものを求め続けて過剰に食し、やがて自身の健康に多くの人が不安を覚えるようになるのです。その頃には栄養や保健効果を考えて「何を食べるべきか」、食の安全を思って「何が食べられるか」、おいしさを求めて「何を食べたいか」と自分の都合に合わせて考えるようになりました。2、30年前までは、少なくともまだ「食」を選んでいたと思います。

 家庭(個人)の食の正確な調査は困難で、現実の家庭生活は、それぞれの人の問題で、わかりませんが、今では、自分で選ぶというよりも、何も考えることもなく、自分に見合う情報に導かれ、仕方なく空腹を満たし、ストレス解消を目的に食事をしているように思います。人間は酒を飲んだら酔っ払う、お腹が空けばイライラするのですから、身体と精神は平衡しているのです。何が食べたいかと食べるだけの人(立場)になって、自問してみると、今の食欲に合わせて、自分勝手にご馳走を思い浮かべるかもしれません。

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土井善晴氏 ©文藝春秋

 人間は料理する動物です。ゴリラは料理しないのです。人間はおいしいものを食べるために料理したのではありません。料理は自然界で弱者であった人間が生き残る戦略として始めた行為です。180万年前に火を使い始め、道具を使って、食べやすく料理して、食べられないものを食べられるようにして、命を繋いできたのです。本来体内で行われる消化を料理によって外部化(分離)することで、食事を合理化して、余剰エネルギーを使って脳を大きくし「賢さ」と、「余暇」という時間を手に入れたのです。料理は人間のクリエーションの始まりです。人間は、料理することで人間らしい姿になり、そして言葉を持ち、家族が協力して社会を大きくしてきたのです。

 現代では、料理以外のことは、ほとんど全てを何かの装置や機械に置き換えてしまったように思います。何かに託すことで、それを利用する私たちの身体能力(知力)はずいぶん弱まりましたが、機器を利用することで、素早く移動し、洗濯も、床掃除も機械に任せ、考えることさえコンピューターが行うという夢のような進化を遂げたのです。そう思うと、人間が人間になってから、いまだに続けている行為は料理だけです。人間は今も料理する動物です。

 この一点を観ても、料理は人間にとって大事な意味があると思います。『人間の条件』を書いた女性哲学者ハンナ・アーレントは、人間の条件の大前提として「地球」と「労働」を挙げています。地球とは私たちのかけがえのない住処であり、労働とは、お金に換えることができない人間の活動です。人間は、地球と労働から逃れられないというのです。お金さえあればなんでも手に入る現代でも、(ステータスによらず)料理はとっても厄介な問題としてあるのです。今、私たちの和食文化と地球は危機に直面しています。