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 これに対し、ハイエクは、政府の介入は、却って不況とインフレを招くと主張した。経済を中央から指示するのは、社会主義と同根とし、それを精緻に述べたのが著書「隷属への道」だ。また社会主義は、自由や権利と相いれず、全体主義につながるという。

 だが、戦後、米国などがケインズ主義を採用し、順調な経済発展を遂げた。それは、まるで「ケインズ革命」のように広がり、次第にハイエクの名は忘れられる。そうした中で、友人として終始一貫して支持したのが、田中だった。

 田中とハイエクが知り合ったのは、1960年頃、共通の友人でハプスブルク家当主、オットー大公の紹介だったという。その自由主義の思想に共鳴した田中は、日本に招くようになる。滞在中は、有力政治家や財界人、学者との会合を設定した。そして、二人が交わした書簡を読むと、当初、田中がハイエクに、反共活動の理論的支柱を求めたのが分かる。

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 1964年7月の書簡で、田中は、日本のリベラリズムの脆弱さを嘆いていた。まだ戦前の思想統制の影響が残り、いつ全体主義に戻るか、分からないという。

©時事通信社

「この思想教育は、あらゆる分野を政府が統制した戦前に蔓延し、1930年代の大恐慌時、勢いを増しました。それが、リベラルとされる者も含め、日本人が全体主義に抵抗しなかった理由だと確信します」

「過去の戦争体験を踏まえ、リベラリズムとは戦うべき価値があると信じる知識人、実業家は、ごく一部でしょう。経済は成長しても、リベラリズムという点で、まだ日本は精神的に強くないと危惧します。将来、経済が失速すれば、その時、国民は全体主義に抵抗しないかもしれません」

「暴力はにくむべきもの。だが暴力を黙視するのは決して正しい姿勢ではない」

 そして、月刊誌への寄稿で、本物の自由主義者は、決して暴力に尻込みしないと宣言した。

「ここで私が云いたいのは、暴力はにくむべきものだ、だが暴力を黙視するのは決して正しい姿勢ではないということである。暴力をふるうものに対して、暴力とは元のとれないものだ、能率のよいものではないということを知らしめることが、われわれのつとめではないか。

 本当の自由主義者というものは、暴力に対して決して尻ごみしない。ヨーロッパの自由主義者たちは、ファシズムの暴力に対しても、コミュニズムの暴力に対しても正面から堂々と闘ってきた。自由主義者とは戦う人なのだ。その意味では、日本の自由主義者たちは本ものではないのではないだろうか」(「文藝春秋」1963年5月号)