「京都の山はまろまろしゅうて、やさしいですやろ。ヨーロッパでは、山がとげとげしゅうてあきまへんなあ」
顔を合わせるなり、今西錦司はハイエクに、こう語りかけたという。それは、史上最も奇妙な対談の一つだったに違いない。二人も、なぜ自分がそこへ呼ばれたか、呑み込めてなかったのではないか。分野も違い、普段は相まみえることもないだろう。
京都の妙心寺は、臨済宗妙心寺派の大本山である。創建から600年以上、敷石が広がる境内には、静寂な空気が漂う。この日、1978年9月25日、その庭を望む部屋で、彼らは向かい合った。
この時、フリードリヒ・フォン・ハイエクは70代後半、4年前にノーベル経済学賞を受賞し、世界を回る日々が続いた。戦前から社会主義を批判し、独自の自由主義を唱え、その学説は、各国の市場重視路線を支えた。
そして、相手は同年代の今西、スリムな体格で、正面から見据える目差しが古武士を思わせた。京都生まれで、ニホンザルなどの研究で知られる生物学者である。種の変化は、共存による「棲み分け」から始まるという進化論を唱えた。
片や、自由主義経済の思想的基盤を作った経済学者、片や、独自の進化論を唱える生物学者、この奇想天外な対談を仕掛けたのが、田中清玄だった。
田中の狙いはどこにあったのだろうか
前回述べたように、田中は、1960年代、ハイエクが不遇な時から、物心両面で支援してきた。ノーベル賞授賞の晩餐会では、友人として日本から、唯一、メインテーブルに招かれた。そして、そのハイエクが、田中の依頼で、今西と対談するため来日したのだった。
今西は、1902年、京都の西陣有数の織元「錦屋」の長男に生まれた。実家は、奉公人を含め、30人もの大所帯で、何不自由のない少年時代を過ごした。小さい頃から昆虫採集が好きで、京都帝国大学の農学部に進む。戦後は、京大の教授を務めるが、登山家でもあり、ヒマラヤなどへ調査隊を率いた。
そして、有名なのが、自宅近くの鴨川で、水生昆虫カゲロウを観察し、「棲み分け」理論を唱えたことだ。数種類のカゲロウは、川の中でばらばらにいるのでなく、流れの遅い川岸から速い流心へ、秩序を持って分布していた。
これが、異なる環境に、生物が住む場所を分かち合う「棲み分け」理論につながる。そして、自然淘汰、適者生存を用いた英国の科学者、ダーウィンの進化論を批判するようになった。今西本人の弁は、こうだ。