「この地上に生物の種類がいくらあろうとも、それらはみな種ごとにそれぞれ自分に最も適した生活の場というものを持っていて、その場所に関するかぎりは、その種がそこの主人公なのである。言い換えるならば生物の種類がいくらあろうとも、それらはそれぞれにこの地上を棲み分けている。進化とは、この棲み分けの密度が高くなることである。このように種と種は棲み分けを通して共存している。しかるに種と種が抗争することによってこの棲み分けを破壊するようなことが許されてよいものだろうか」(「私の履歴書」)
つまり、競争原理を軸とするダーウィンに対し、今西は、共存原理に立つと言える。それを、ハイエクの自由主義理論にぶつけるのが、田中の狙いだった。
田中は、1980年と81年にもハイエクを招き、今西と対談させた。また、中央公論社から出版された今西の著書「ダーウィン論」を英訳させ、届けている。私財を投じてでも、そこまで二人の対話に拘る。周囲も困惑したが、その意図を知る鍵、それは同時期、欧米で起きていた「革命」にあった。
サッチャーが登場し、ヨーロッパで起きていた大きな社会変動とは
ハイエクから遅れること2年、1976年のノーベル経済学賞を、シカゴ大学教授のミルトン・フリードマンが受賞した。フリードマンは、ハイエクが会長を務めた自由主義者の団体、モンペルラン協会の会員で、「シカゴ学派」の中心だ。その哲学は自由放任、市場重視で、政府の介入への抵抗だった。
資本主義の歴史を俯瞰したダニエル・ヤーギンとジョゼフ・スタニスローは、共著「市場対国家」で、シカゴ学派の思想をこう紹介した。
「市場は信頼でき、競争の有効性は信頼できる。市場に任せておけば、最高の結果が生まれる。資源配分の仕組みとしては、価格がもっとも優れている。市場に任せておけば達成される点に介入してその結果を変えようとするのは、非生産的である。このように考えるシカゴ学派にとって、政府の政策に関していえる点はあきらかである。可能な限り、政府の活動を民間の活動に置き換えていくべきなのだ。政府は小さいほどいい」
その後も、シカゴ学派の学者が、続々とノーベル賞を受賞していく。それを、如実に反映したのが、英国だった。
戦後、英国は「ゆりかごから墓場まで」という福祉国家になるが、国際競争力も低下し、社会が沈滞した。そこへ、思い切った民営化と規制緩和を断行したのが、英国初の女性宰相マーガレット・サッチャーだった。学生時代からハイエクの著作を読み、その社会主義批判に感銘を受けたという。