60年代半ばというと、東西冷戦の真っ只中、世界中で、共産圏と自由主義圏が対峙していた。日本も、共産党と社会党が勢力を増し、労働組合もその影響下にあった。そこで、精緻な理論で共産主義を批判したハイエクは、この上ない援軍だったはずだ。
それから半世紀余りが経ち、ロシアのウクライナ侵攻が世界に衝撃を与えた。そして、田中の言葉通り、欧州の人々は一致団結し、ロシアに対抗している。真の自由主義者は、暴力に屈しない。自由主義者とは、戦う人だ。これは、戦後の日本の「進歩的文化人」へのメッセージでもあった。
だが、反共活動だけが、二人を結びつけたのではない。付き合う中で、田中は、ハイエクの孤高とも言える生き様に魅せられていったようだ。
「ハイエク教授の一生はマルクス主義者からも、ケインズ学派の学者たちからも、攻撃され続けた一生でした。でも教授は一歩もひるみませんでした。もう半世紀も昔のことですが、教授は学生に向かって、『経済学者たらんとする者は、自らに対する評価や名声を求めるべきではなく、知的探求のためなら、あえて不遇も厭うべきではない』と講義したことがあったそうです。教授と30年以上にわたってお付き合いいただいて、この信念は一生を貫いたものであったことが、実によく分かります」(「田中清玄自伝」)
事実、ハイエクの生涯を見ると、田中が言わんとするのも頷ける。
「燃え尽きた年寄り」だったハイエクに手を差し伸べた
ケインズとの論争で注目されたが、1930年代後半には、経済学者として忘れられてしまった。大恐慌への処方箋を与えたケインズは、若手の学者を引きつけ、神格化される。それに対し、ハイエクの教え子は、続々とケインズ派に転向していった。
大学では、学生が彼の理論を「中級の経済学」と呼び、ドイツなまりの英語をからかう有様だ。論文が引用される回数も減り、やがて深刻な鬱病を患うようになる。仕事も手につかず、経済的な苦境も拍車をかけた。
そんな中、1970年9月、ハイエクは、東京の田中に書簡を送った。せっかくの訪日の誘いだが、今回は見送りたい。年金不足を補うため働きたいが、体調から無理だ。医者によると、心理的な要因らしいという。まさに満身創痍である。
そして、その年のクリスマス直前、ハイエクの銀行口座に、突如、田中から3千ドルが振り込まれた。このプレゼントへの、ハイエクの丁重な礼状が残っている。