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「この寛大な贈り物には、大いに感激しました。あなたのように、共通の理想を抱く人でなければ、あり得ないでしょう」

「この贈り物を受けるべきかどうか、最初は躊躇いました。ですが、自分が力を取り戻し、仕事を進めるための援助として、受け取らせていただきたいと思います」

 学界で忘れられ、本人も「燃え尽きた年寄り」と言うほど、人生の底でもがいていた。そこへ、日本から助けの手を差し伸べたのだ。そして、それから間もなく、大きな転機がやってくる。

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©文藝春秋

74年、ハイエクはノーベル経済学賞を受賞。運命が一変する

 きっかけの1つは、1973年の秋に勃発した中東戦争と石油危機だった。アラブ産油国の原油値上げで物価が上昇し、世界経済は急ブレーキがかかる。経済は停滞したのにインフレが進み、それまでの理論と食い違う現象が現れてしまった。

 こうして忘れられていたハイエクは復活し、クライマックスが、1974年12月、スウェーデンのストックホルムでのノーベル経済学賞の授与だった。ここでの講演で、彼は、それまでの経済学者の政策を大失敗と指摘した。そして、授賞式後の晩餐会で、友人として日本から、唯一、メインテーブルに招かれたのが、田中だ。

 ノーベル経済学者の祝いの席に、武装共産党の元委員長が顔を見せる。マルクスやケインズが生きていたら、思わず苦笑するのではないか。だが、ハイエクにとり、田中は、人生の晴れ舞台にぜひ招きたい同志だったはずだ。マルクス、ケインズ主義者との論争で孤立し、侮蔑され、鬱病も患った時、決して離れず励ましてくれたのが、田中だった。

 そして、ノーベル賞は、ハイエクの周辺にあらゆる変化をもたらした。「昨日の異端は、今日の正統」ではないが、世の関心が一斉に向かい始める。世界中から講演依頼が舞い込み、書籍が出され、政治家も近づいた。

 ところが、それを横目に1978年9月、ハイエクは、田中の招きで来日した。京都で、ある人物と対談するためだ。その相手は、名だたる経済学者でも、経営者でも、政治家でもなく、何と生物学者だった。

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