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西寺 僕も船山基紀さんからもいろいろ当時、京平さんに指名されたプレッシャーなどの話を聞きました。もしかするとアレンジャーには厳しいんじゃないですか。ある種の同業者、直の後輩というか。僕も近田さんもどちらかと言えば「アイディアマン」「コンセプター」だと思うので。そっち側の後輩には「そんな考え方も面白いよね」と寛容だったのかもしれないなと。

近田 そうかもしれないね。

「こういう流行している音楽を聴いたほうがいいですよ」

西寺 本に書きましたけど。僕が京平さんと会った99年、2000年のとき、Dragon Ashのアルバム「Viva La Revolution」とポルノグラフィティの「アポロ」を熱心に聴かれていたのにびっくりしたんです。机にCDが置いてありましたから。その頃、京平さんは60歳くらいで、普段は悠々自適にお好きなモダンジャズとか、インストゥルメンタルものを聴いてるのかな? と思っていたのに。

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近田 普通は若い子が聴くものだよね。

西寺 だから「エッ!」と思って眺めていたら「郷太君もこういう流行している音楽を聴いたほうがいいですよ」とか言われて。「若い子は刺激が好きだから。NONAは上品過ぎるんですよ、それじゃダメよ」ときっぱり言われて。

©文藝春秋

近田 しかも京平さんは、音をラジカセで聴いてるんでしょ。

西寺 そうです。曲作りもドンキ・ホーテで売っているようなチープなキーボードを使われていて(笑)。それでほんとにラップというか、当時Dragon Ashと共演されていたラッパ我リヤを聴いている。そんな京平さんを見て「凄い!」と思いましたね。

近田 ラッパ我リヤをちゃんと聴くのはすごいよ。

西寺 近田さんに関しては鋭角的な部分というか、ヒップホップももちろんですし、何か近田さんから学びたいという気持ちが京平さんにあったんじゃないかと。

近田 ああ、その感じはわかるよ。

©文藝春秋

西寺 僕のときはたぶんヒットすれば弟の忠孝さんを助けることもあったし。面白そうな奴をちょっと学ばしてやろうという気持ちもあったのかなと。

近田 まあ、そうだね。

西寺 京平さんに最初に会ったとき、「京平先生」って最初みんな周りは呼ぶんですが、僕は「京平さん」って言ったんです。そうしたらレコード会社の人から「先生って言ったほうがいいよ」って言われて。次話すときに先生って呼んだら、本人から不機嫌そうに「先生はやめて」って言われて。でも亡くなった後に身に染みたのは、「ああ、ほんとに京平さんは僕の先生だったなあ」って。

近田 いや、あの人は先生ですよ、僕にとっても。

西寺 近田さんと京平さんのことをお話しできたのは僕にとってすごくうれしいです。

近田 俺、古いからね。だってさ、郷太君が生まれた頃ってさ、俺、もう普通にディスコでバンドやってたからさ(笑)。

写真撮影=杉山拓也/文藝春秋