1ページ目から読む
5/5ページ目

地面にぶつかる寸前に、思い浮かべたのは誰だったのか?

 母の遺体は綺麗だった。警察の人たちも、飛び降り自殺であんなに綺麗だったのは、初めて見たと言っていた。

 母は体が小さく、義父は大柄で逞しかった。そのため警察は当初、母に共犯者がいると考えて捜査をしていた。

 母が飛び降りた11階建てのマンションは、以前、母と仲が良かった別の女性が、夫の浮気に悩んだ揚げ句、飛び降り自殺した場所でもあった。だからそのマンションを選んだんじゃないかとも言っていた。

ADVERTISEMENT

 この女性から母について聞いたことは、どれも初めて知ることばかりだった。まさか、最後の愛人を義父に紹介したのが、母自身だったなんて……。

 事件が起こった当時よりは、大人になった僕だったが、それでもこれらの事実をどう受け入れたらいいのかわからなかった。ひとまず、女性にお礼を伝え、その場をあとにした。

 すぐには気持ちの整理ができなかったが、母が飛び降りた現場を、どうしても見たくなり、そのマンションに向かった。事件当時、警察からは詳しい場所を教えてもらえず、僕自身も、余裕もないまま時間が過ぎていった。だから今回、初めてそのマンションに行った。

 当時の新聞記事を頼りに捜し当てたそのマンションは、何度も通ったことがある場所にあった。事件のあとも、僕はなにも知らずに、近くの飲食店にも何度か行っていた。

 母が車を停めた駐車場から、現場まで実際に歩いてみた。思いのほか距離がある。途中に大きな交差点が1つ。エレベーターで11階まで上ってみた。エレベーターの中は、僕と取材スタッフ2人の、計3人だけでも窮屈に感じるほどの狭さだった。

 駐車場からこのマンションまで歩いた母は、その道すがらなにを思っていたのか。途中の信号に捕まっていたとしたら、焦っていたのだろうか。この狭いエレベータで、11階まで向かう母の心情は、どんなものだったのだろうか。途中の階で止まって、誰かが入ってきていたらどうだったのか。どこかで引き返すことはできなかったのだろうか。

 母が飛び降りた場所は、最上階の11階から、さらに屋上に出なければいけない。扉には鍵が掛けられていて、屋上には出られないようになっている。母がここで飛び降りたから、鍵を掛けるようになったのか?

 もしも、母が来たその日、鍵が掛けられていたら、どうしただろうか。飛び降りる直前に、母が最後に思ったのは何だったのか?地面にぶつかる寸前に、思い浮かべたのは誰だったのか?韓国のおばさんや親戚たち、台湾の父、日本の義父、それとも、僕だったのだろうか。