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「タモリがマニアックになりすぎないように」

『タモリ倶楽部』では、2000年代に入るあたりから、鉄道や地理などタモリの趣味に寄せた企画が増え始める。それまでタモリ自ら企画を出すことはほとんどなく、「東京の山登り」など提案した数少ない企画もことごとく視聴率が取れなかったようだ。彼の現場マネージャーを長らく務めた前田猛は同番組に対し「タモリがマニアックになりすぎないように」と注意を怠らなかったという(片田直久『タモリ伝』コアマガジン)。きっと、マネージャーはタモリが凝り性であることを重々承知しており、あまりのめり込むと番組の進行を妨げかねないと考えていたのではないか。

タモリ氏の才能を見出した、漫画家の赤塚不二夫氏 ©文藝春秋

 実際、マニアックなテーマの回では、タモリが進行も忘れて夢中になる姿がよく見られた。しかし、この頃には、視聴者はそんなタモリをむしろ面白がるようになっていた。おかげで視聴率もよくなったという。

 ここまで書いてきたように、ゆるさが神髄の『タモリ倶楽部』だが、長年見続けていると、ある種の人間ドキュメンタリーのような印象を抱くこともある。ロックバンド「トリプルファイヤー」のボーカル・吉田靖直をフィーチャーした一連の企画などが、それにあたる。やる気があるのかないのかよくわからない吉田のキャラはまさにこの番組にぴったりで、これまでに、どんなアルバイトをしても長続きしない彼のため、その打開策を出演者たちが講じたり、昨春放送された回では、10年あまり居候してきた知人宅からの引っ越しの模様が伝えられたりした。タモリ自身、福岡から上京したばかりのデビュー前後、マンガ家・赤塚不二夫のマンションに居候した経験を持つだけに、吉田のかなり常識外れの居候話を聞いてあきれつつも、どこか温かく見守っているようでもあり、興味深かった。

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番組タイトルに「倶楽部」とつく理由

『タモリ倶楽部』に触発されてか、その後、『マツコの知らない世界』や『アメトーーク!』など、さまざまなマニア(後者は芸能人限定だが)が登場してトークを繰り広げる番組がいくつか現れた。だが、これらの番組ではマニアにもそれなりの話術や個性が求められるのに対し、『タモリ倶楽部』で重要とされるのは語る人ではなく、あくまで語られる対象のほうである。たとえトークがつたなくても、タモリは対象となるものの面白さをちゃんと引き出してみせた。それもタモリがどんな相手とも対等に、一緒になって楽しむことのできる稀有な芸能人だからこそだろう。それは番組のタイトルに「倶楽部」とつく理由にもつながっている。

©文藝春秋

 話を冒頭に戻せば、ヴェンダースが1980年代、小津映画に描かれた秩序ある風景を侵す存在として(偶然ながら)とりあげた『タモリ倶楽部』だが、40年もの歳月を経て、この番組自体が日本のひとつの風景となった。最終回をもって、その風景が見られなくなるかと思うとやはり寂しさを禁じ得ない。

 かつて『タモリ倶楽部』では、タイトルロゴに「帰ってきた」と入っていた時期がある。これは、ハウフルスが『タモリ倶楽部』の制作から一旦離れたのち、再び復帰したことから入れられた。この前例にならい、年に1度の特番でもいいから『タモリ倶楽部』がいずれまた帰ってくることを、ぜひお願いしたい。