『タモリ倶楽部』は「深夜の特異ゾーン」だった
当時のテレビ朝日のプロデューサー・斎藤由雄によれば、タイトルをつくってからクレームがつかないか少し心配したものの、《深夜の特異ゾーンということとだんだん話題になっていったので、まわりからそんなもんかなって認知され》、クレームもなかったという(『FLASH』1993年3月16日号)。タイトルバックのお尻は、その後、数年おきにモデルのオーディションをするなどして交代を繰り返しながら、テーマ曲の「ショート・ショーツ」(ザ・ロイヤル・ティーンズ)とともに番組終了まで引き継がれた。
番組が始まった頃は、日本のテレビがまだ24時間放送に移行する前で、深夜0時以降はほぼ未開拓の時間帯だった。前出のプロデューサーが「深夜の特異ゾーン」と言っていたのもそういう背景がある。しかし、その後、深夜帯にも人気番組が増え、けっして“特異ゾーン”ではなくなった。他方で、時代が下るにつれ、時間帯に関係なくテレビでエロを自粛する傾向も強まっていく。それは近年のコンプライアンスの強化から、より厳しくなっている。
この流れからすると『タモリ倶楽部』からもお尻が消えておかしくなかったはずだが、どういうわけか最後まで残った。当のタモリも昨年ゲスト出演したラジオ番組で、昨今の状況からすれば『タモリ倶楽部』でお尻を出すのは「ありえないですよ」としつつ、「あれはどういうわけか、『まあいいか、あの番組だけは』ってことで、長年やってるから許されてる」と語っていた(ニッポン放送『ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回』2022年10月22日放送分)。
タモリが語った「番組が始まった経緯」
『タモリ倶楽部』のスタートは、フジテレビ系で「森田一義アワー」と冠した昼12時台のバラエティ『笑っていいとも!』が始まったのとほとんど同時だった。それまで夜のイメージの強かったタモリだが、『いいとも!』の人気が高まるにともない、日本のお昼の顔となっていく。そのなかで『タモリ倶楽部』は、彼が肩の力を抜いて、ときにいかがわしかったり、マニアックだったりといった素に近い面を出せるホームグラウンドであり、解放区でもあったといえる。そもそもこの番組が始まった経緯を、タモリ本人は次のように語っていた。
《ウチ(田辺エージェンシー)の社長(田辺昭知氏)の発想で、テレビはビチビチと間を詰めた密度の濃いものが普通だったけど、逆に深夜は薄いスカスカな番組を作ろうということが、そもそもだったんだ。ただ、通常だと番組にならないような、まぁそういった意味では画期的であるし、スカスカなところが私に合ってね、やる気のないダラダラするのがピッタリだったと思います》(『FLASH』1993年3月16日号)
スカスカかどうかはともかくとして、間をびっちりと詰めない、ゆるい雰囲気は40年間ずっと変わらなかったこの番組の神髄だ。ゆるい雰囲気は低予算のせいでもあるのだろう。収録でも、お金のかかるセットを組まなくてもいいよう、テレ朝局内のスタジオは避けて廊下や玄関を使い、屋外ロケもおのずと多くなった。「毎度おなじみ流浪の番組」というタモリが毎回冒頭で口にするフレーズは、もともとはそんな事情を指したものである。