食堂も音楽学部ではなく、美術学部の『大浦食堂』(2021年閉店)を使った。三島由紀夫の自決のニュースを聞いたのも『大浦食堂』だった。1年生の秋、11月25日のことだ。過激な左翼学生だった坂本龍一にとって、三島由紀夫の思想や言動の一部はあいいれないものがあったものの、父の書棚から『仮面の告白』を抜き出して読んで以来、この頃もずっと読み続けていた。
自決のニュースを聞いて、友人たちと遺体が安置されている牛込警察署に押し掛けて、もちろん遺体とは対面できるわけもなく、その夜は『新宿ピットイン』で記憶がなくなるまで泥酔したという。
美術学部の交流で生まれた柄本明らとの出会い
また、美術学部の生徒たちとの交流は、ひとつの重要な出会いも産んだ。美術学部には暗黒舞踏やアングラ演劇をやっている学生も多く、その影響で坂本龍一は黒テントや自由劇場の関係者とも知り合うようになった。佐藤信、吉田日出子、串田和美、朝比奈尚行、佐藤博、柄本明らだ。
「美術学部なのに天才的にギターがうまいやつとか、へんな学生がいっぱいいたんです。人間的におもしろいし、そういうやつらのとこを転々と泊まり歩いて、何週間も家に帰らない生活を送ってました。おもしろかったなあ」(※※)
この天才的にギターがうまかった美術学部生が朝比奈逸人。自由劇場の朝比奈尚行の弟だった。こうして坂本龍一は小劇場の演劇に深くかかわるようになり、演劇の音楽も手がけるようになっていくほか、一度は役者として舞台に立ったこともあった。このことは坂本龍一の1970年代にとって大きな意味を持つようになる。
もちろん、音楽も忘れたわけではない。授業はさぼりがちだったが、小泉文夫の民族音楽の授業、三善晃の授業はときに履修資格もないのに熱心に受けた。また、電子音楽に対する関心も強く関連の授業を受けるほかに独学もした。
「ぼくは松本民之助先生の弟子だったので、ゼミも自動的に松本先生のところに割り振られたのですが、ほとんど行くことはありませんでした。松本先生にも宣言したことがあるんです。ゼミがおもしろくないので自分で独学します! と。ひどいですよね。その頃はまだまだ過激派学生だったから、学校のシステムとか師弟、上下関係なんてまったく気にしないという態度で通していました。建前としては学校というシステムを壊すということだったんですが、生来の怠け者であるということのほうが大きかったんじゃないかな。しかし、そうして授業はさぼるものの、課題だけは提出してちゃっかり進級してる。留年や退学にならない程度にさぼるといういい加減さでした(笑)」(※※)