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音楽教師になる可能性も考えて母校新宿高校へ教育実習に

 また、音楽の教師になるという可能性も一応は考えて、母校新宿高校に教育実習で赴いたこともある。音楽の授業をすること自体はおもしろかったが、組織の一員としての教員に向いているはずもなく早々に教師の道は断念した。大学3年生のときには、音楽の家庭教師もアルバイトとして考え、生徒募集のビラを作ったこともある。ピアノ、楽理など藝大もしくは各音楽大学を目指す中高生のほか、「幼児音感教育」という幼児まで対象にしたものだった。

 美術学部生や劇団員、そしてデモ仲間。何週間も家に帰らず、授業もさぼりがちだったが、それでも、千歳烏山の実家にはときどき戻る。

 その千歳烏山に1971年の3月、小さくて不思議な店がオープンした。ジャズ喫茶のようなスナックのようなその店の名は『ロフト』。後に都内各地で同名ライブハウスをオープンさせ、東京でライブハウス文化を花開かせた平野悠による『ロフト一号店』だった。

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はっぴいえんどを初めて聞いたのは『ロフト』だった

 いつしか坂本龍一はこの店の常連となり、ときに相席の客と音楽論争を交わし、ときに店近くの桐朋学園大学音楽学部の生徒のレポートを代筆し、最後はいつも酔い潰れていたと平野悠は著書『ライブハウス「ロフト」青春記』(講談社2012年)で回想している。はっぴいえんどを初めて聴いたのもこの千歳烏山の『ロフト』でのことだった。

「あそこはロックもフォークもジャズもかけるような店で、あそこで初めて耳にした音楽というものがずいぶんあるんです」(※※)

 はっぴいえんどには驚いた。大学に入ってからは日比谷の野外音楽堂でのロックのフリー・コンサートによく行っていて、日本語のロックはどうあるべきかという関心もあった。

 自分が感心した部分は同バンドのベーシストである細野晴臣というミュージシャンによるところが大きいと、やがて気づいていくことになる。

大学3年生で初めての結婚。女児が生まれ、家族を養うことに

 そして、大学3年生のときには結婚をした。美術学部に在籍していた1年先輩の女性が相手だった。やがて女児も生まれた。

 坂本龍一は大学生ながら家族を養うという意識に目覚めた。

 最初は地下鉄工事など日給のいい肉体労働に励んだが、やはり向いていない。3日で音を上げて、今度は自分の得意分野のアルバイトをすることにした。ピアノの演奏だ。