物心ついた時から春になると咲いていた。「小学校に通うのは桜の下の通学路。春の交通安全運動の期間中、満開の桜の下で小学生が全校で鼓笛隊のパレードを行っていました。だから、若い人にとっても非常になじみが深いのです」と遠藤さんは話す。
その「当たり前」は原発事故で失われた。
12年前のあの日、住民たちに突然降りかかった出来事…
2011年3月、夜の森の住民は突然に避難を強いられたのだ。
あれから12年が経過し、2023年4月1日に避難指示が解除された。口で言えば「12年」とひとことで済む。しかし、個人個人にとっては重くて長い年月だった。生きていくためには、避難先で根を張る必要もあった。仕事を新たに求めた人もいる。子供は避難先で通学し、友達もできた。「どこが故郷か」と質問すると、答えに窮する若者が多い。「病院通いをしている高齢者だって、新たな掛かりつけの医者が出来ました。解除されたからと言って、すぐに帰れるわけではないのです」。遠藤さんは、人々が置かれた複雑な状況を代弁する。
今回避難指示が解除された地区の「準備宿泊」には、約2500人の住民登録者数に対して、27世帯56人からしか申し込みがなかった。解除後に帰還する人数もそれほど変わらないと見られている。
ならば、バラバラになった住民にとって、もはや振り返る土地ではないのかというと、そうではない。
「夜の森のことはいつも考えています。なんと言っても桜並木ですよね。あのピンクのトンネルを思い浮かべると、胸が苦しくなる。もう帰れなくなってしまった故郷ですから」と語る70代の女性もいる。
「当たり前」だった桜並木は、帰ろうにも帰れなくなった住民にとって、特別な存在になっていった。
だからこそ、「1本1本大事に維持してほしい。私達があそこで暮らした証のように感じる」(前出の70代女性)という切ない声が聞かれるのだ。しかし、現に居住している住民が少ない地区で、どう保存していけるかというと、遠藤さんが説明するように多くの問題をはらんでいる。
「当たり前を維持することが、どれだけ難しいか」。遠藤さんは声を絞り出すようにして話す。
一級建築士として働いてきた遠藤さんは、「もう少し避難指示解除が早ければ、状況が違っていたのではないか」と悔しく思うことがある。
遠藤さんが悔しく思ったワケ
直して使える家がもっと多かったからだ。