桜並木で有名な福島県富岡町の夜の森地区。12年ぶりの避難指示解除に合わせて満開になった。

 だが、この桜並木は美しいだけではない。夜の森の歴史をひもとき、再生に何が必要なのかを示唆してくれる貴重な存在だ。

 夜の森は古くからのまちではない。富岡町の中心部は江戸時代から続く街道の宿場だったが、こちらは明治時代になっても荒れた原野だった。

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「変化」を起こしたのは2人の開拓者だ。

 明治後期、同じ太平洋に面した福島県の浜通りでも、現在の南相馬市のエリアから半谷清寿(はんがい・せいじゅ)、但野(ただの)芳蔵という人物が入植した。それまでの夜の森には2軒の農家しかなかったといい、これで4軒になった。

 半谷、但野の両氏はそれぞれ農地としての開拓を始めた。これが現在の夜の森の基礎になっていて、半谷家が拓いた北部を「半谷の原」、但野家が拓いた南部を「但野ケ原」と呼んだ時代もある。#1で取り上げた染色家、小野耕一さん(75)の父は、戦後に「半谷の原」へ入植したという。

 開発は農地としてだけ行われたのではなかった。1921(大正10)年に開業したJR常磐線「夜ノ森駅」が起爆剤になった。

 夜の森は、東に台地を下れば太平洋に出る。西に阿武隈高地を登れば川内村だ。#1で述べたように、東京電力福島第一原子力発電所が爆発・火災事故を起こした時、富岡町役場が住民を引き連れて避難したのが川内村だった。

 川内村の平均標高は456m。現在の人口は約2千人しかないが、森林資源は豊富だ。

満開になった桜の下で、遠藤一善さん(富岡町夜の森)

豊富な森林資源に目をつけたのは…

 これに目を着けたのが入植した当時の但野氏だった。

 木材で生産する炭は当時の燃料だ。その運び出しのための駅を造ろうと考えたのである。明治期に開通した常磐線には、富岡町内に富岡駅しかなかった。だが、夜の森に新駅ができれば、川内村から最短距離で炭や木材が搬出できた。

 但野氏は駅設置運動の先頭に立ち、代議士になっていた半谷氏も顧問として協力した。そして但野氏が土地を提供するなど私財をなげうって出来たのが夜ノ森駅だった。

 見込みは当たった。関東方面への炭の積み出しで、川内村は「炭の生産量が日本一」と称されるようになる。駅の周辺には関連の仕事をする人が住み着き、夜の森を「まち」として形作ることになった。

 その後のエネルギー革命で炭は廃れ、薪炭産業を基盤とした駅の面影はなくなったが、閑静な住宅地として成熟していった。

 駅が近くて通勤に便利だったからだ。しかも台状の平地になっていて坂が少ない。洪水など自然災害のリスクも低かった。「あそこなら住みたい」という人が増えていった。