福島県富岡町の「夜の森(よのもり)」地区は、全長約2.2kmもの桜並木で有名だ。

 しかし、東日本大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所の事故で避難を強いられ、2023年4月1日にようやく避難指示が解除された。実に12年ぶりに「帰れる土地」になったのである。

 帰還者は少ない。

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 当たり前だろう。12年もの年月を「よそ」で暮らさざるを得なかった人々にとって、「以前の生活」を取り戻すことがどれだけ難しいか。そもそも避難先で生まれた世代が増えているだけでなく、亡くなった人も多い。

 それでも桜並木は変わらずに花を満開にする。

 どのような人が「桜の園」に戻ったのか。帰還した人を訪ねた。

「やっぱり故郷ですから、ここに帰るとホッとします。いるだけで安心するというか」

 小野耕一さん(75)と繁子さん(76)の夫妻がうなずき合う。数少ない帰還者だ。

避難指示解除。笑顔がこぼれる小野耕一さん(右)、繁子さん夫妻(おだがいさま工房)

 桜並木は自宅から100mほど離れた通りにある。原発事故前は家が建ち並んでいたが、避難指示が長引くうちに多くの家が住めなくなった。そうした建築物の公費解体が進み、一帯は更地だらけになっている。このため居間に座っていても桜並木がよく見える。

「きれいだけど、寂しいね」。耕一さんがつぶやく。

 耕一さんは今、避難後に覚えた染色の技術を駆使して「桜染め」を特産品にできないか研究している。なぜ、取り組むのか。その思いを知るには、夫妻の12年間を振り返らなければならない。

町外で剪定された桜の枝を使い草木染めの実験を繰り返している。「肌のような色になってしまうのよね」と小野繁子さん(おだがいさま工房)

ハンドルを取られてまっすぐ運転できない…「おかしい」と車を停めた途端…

 2011年3月11日午後2時46分、耕一さんはダンプを運転していた。

 60歳で富岡町役場を定年退職してから3年。町シルバー人材センターの事務局職員として働き、この日は会員が刈り取った草を運んで帰る途中だった。

「最初は何が起きたのか分かりませんでした。ハンドルを取られて真っ直ぐに運転できません。おかしいぞと車を止めた途端、目の前の家のガラス窓がバーンと飛び出しました。事務所に戻ると、備品や物が散乱して、とても仕事ができるような状態ではありません。自宅や家族も心配だし、『明日、皆で片づけることにしよう』と、とりあえず解散しました」

 事務所は結局、片づけられないままになった。

 翌3月12日午前5時44分、政府が福島第一原発から半径10km圏内に避難指示を出したからだ。

 富岡町は、ほぼすっぽりこのエリアに入った。

 ただ、小野さん一家は避難しなければならなくなったことを知らなかった。自宅近くの防災無線が地震で聞こえなくなっていたのである。

 このため、耕一さんは朝から畑に出ていた。