「心が折れました。もうダメだと思った」
福島県相馬市の景勝地・松川浦。亀屋旅館を経営する久田浩之さん(41)は振り返る。
2022年3月16日に福島県沖地震が発生し、相馬市は震度6強の烈震に見舞われた。
亀屋旅館は2階建てで11室しかなく、家族経営のアットホームな宿だ。しかし、すぐには直せないほど大破した。前年にも震度6強の地震に襲われ、東日本大震災からわずか11年間で3度目の被災。前を向く力は残っていなかった。
あれから1年が過ぎた。
まだ、多くの旅館が休業を余儀なくされ、亀屋旅館も全てが直っているわけではない。だが、久田さんは営業を再開し、仲間と一緒に松川浦の起死回生策となるような取り組みを始めていた。
管野芳正さん(48)=ホテルみなとや、管野功さん(46)=旅館いさみや、管野雄三さん(29)=丸三旅館=と共に、若旦那4人で「松川浦ガイドの会」(会長は久田さん)を結成し、かつて行われていた「浜焼き」を復活させて、驚くほどの集客に結びつけていたのである。
「浜焼きがなかったら、再起できなかった」と話すメンバーがいるほどだ。(全2回の1回目/続きを読む)
どうして「浜焼き」は心の支えになったのだろうか
浜焼きはなぜ、それほどの支えになったのか。そもそも心が折れてしまうほどの地震とは、どんな被災が続いてきたのか。話は12年前にさかのぼる。
松川浦は、約6kmもの砂州で太平洋と隔てられた潟湖だ。小島が点在する景観が優美で、隣の宮城県にある日本三景の「松島」を彷彿とさせる。そのため「小松島」とも呼ばれてきた。古くは万葉集にうたわれ、江戸時代には領主の相馬藩主が行楽に訪れたという。
港は沿岸漁業の基地になっていて、潟湖では青ノリが養殖されている。福島県内では有数の漁師町でもある。
その松川浦が最初に壊滅的な打撃を受けたのは、2011年3月11日の東日本大震災だった。
久田さんは旅館にいた。「津波なんて来ないと、なめていました」と話す。
亀屋旅館は駐車場と県道を挟んだ向こう側に松川浦がある。「津波が来る前には海水が引く」と言われていたので、久田さんは親類と一緒に見に行った。
「驚きました。松川浦は潮が引いても、航路だけは海水がなくなることがありません。それなのに航路まで干上がっていたのです」
「やばいんじゃねえか」。通り掛かった消防団が「何をやっているんだ。早く逃げろ」と大声で叫ぶ。もうすぐそこまで津波が来ていたのである。
久田さんは慌てて旅館へ戻り、寝たきりになっていた祖父を1階から2階に上げようと脇を持ち上げた。その時、何mもの高さの黒い津波の壁が、松川浦沿いの県道を呑み込みながら市街地の方へ押し寄せていくのが見えた。