借金はギリギリまで膨らんでいる、どうやったら営業を再開できるのか
いさみやは二つの建物の合築だ。双方で揺れが異なったせいか、20cmほど隙間ができて、屋外が丸見えになった。片方の木造2階建ては瓦が落ち、まるで屋外にいるかのごとくに雨漏りがした。
「もう一方の鉄筋3階建ては営業できるのではないか」。そう考えた功さんは父親と協力してひび割れた壁を直すなどして、2週間ほど営業した。
しかし、建築士に見てもらうと、「度重なる地震で基礎まで壊れている。次に被災したら客の安全は保障できない」と言われて、営業を取り止めた。以後、現在まで再開できないままだ。安心して客を迎えるには、解体して建て直さざるを得ない。これには巨額な資金が要る。補助金を申請しようと県とやりとりしているが、なかなか内容が決まらない。
松川浦では2021年の地震復旧工事が終わらないうちに被災した旅館もあった。
復旧工事が終わり、業者から引き渡しを受けて4日後に被災した旅館もある。修繕箇所がまた壊れただけでなく、4階建ての建物が傾いて、部屋にいたら気持ち悪くなってしまう状態だ。
洋式便所の便器が根元から破断して吹き飛んだ旅館では、4階の内壁が崩落した隙間からぐねぐねに曲がった鉄骨が丸見えになっていた。
「修繕しようにも、震災時に抱えた借金の支払いが終わっていない。それなのに2021年の地震でギリギリまで借金が膨らんでいる。どうやったら営業を再開できるのか」と頭を抱える旅館ばかりだった。
久田さんは「被災前は24軒の宿泊施設がありましたが、そのうち5軒が廃業しました。7軒が休業中。12軒が営業していることになっているのですけれど、旅館としてではなく、ノリの養殖しかしていないところもあって、実際には7~8軒しか再開できていません」と肩を落とす。
久田さん自身、冒頭で述べたように被災当初は「心が折れた」状態で、呆然としていた。「特に父母は廃業したがっていました。また地震が起きると言われていましたから」と話す。
ガイドの会のメンバー、管野芳正さん(ホテルみなとや)は、「2021年の地震で壊れた箇所を直したばかりだったのに、もっと酷く壊れてしまいました。震災で抱えた借金が、前年の地震でさらに膨らんでいて、これ以上の借金ができるのだろうかと、しばらくは何も考えられませんでした」と語る。
私は発災直後、そして1カ月後に松川浦を訪れたが、地域全体が暗く沈み、人々の目はうつろで、生気がなかった。
嬉しい想定外だったことは?
2022年の地震による死者は3人(相馬市内は1人)と比較的少なく、被害の大きかったエリアも狭かったからだろうか。局所的な被害が深刻な割に報道は少なく、「すぐに報じられなくなってしまいました」と久田さんは語る。このため「世の中に見放された」と話す人もいた。そうした「見捨てられた」感が、人々の心を余計に沈鬱にさせていたのではあるまいか。
そのような中、久田さんは「ガイドの会」で浜焼きをやろうと考えた。