いさみやでは家具や備品が足の踏み場もないほど散乱し、1階広間のガラスを突き破って船が2隻入り込んでいた。玄関の外には流されて来た家の屋根や瓦礫がうず高く堆積し、そこが駐車スペースであることさえ分からなかった。
「屋内にぶ厚くたまった泥は油混じりだったせいか、すごい臭いがします。床下にもたまっていて、ボランティアに助けてもらいながら除去しました」
功さんは父親と一緒に壁のクロスなどを張り替え、中古の器材をかき集めて営業を再開した。被災から3カ月ほど後のことだ。
すぐに復旧工事の作業員で満室になった。それが次第に除染作業員に変わる。これらの宿泊が4~5年続き、経営的には助かった。だが、観光客は戻って来なかった。
松川浦では魚料理が自慢の宿が多かったのに、地物の魚介類を出すことさえままならなかった。漁師は原発事故のダメージを受け、満足に漁ができない状態に置かれていたからだ。漁の回数などを制限しながら出荷先での評価を調べる「試験操業」が続き、「本格操業への移行期間」となったのは2021年4月のことだ。現在もまだ「本格操業」ではない。
それでも、少しずつ雰囲気は変わった。
お客さんが来始めた。しかし……
2018年、震災から7年ぶりに「原釜尾浜海水浴場」で泳げるようになった。「ようやく一般のお客さんが来始めました」と功さんは語る。
いいことは続かない。2020年春から新型コロナウイルス感染症が流行して、客足はがっくり落ちた。
これに追い打ちをかけたのが、2021年2月13日に発生した福島県沖を震源とする地震だ。相馬市では震度6強を記録した。
いさみやでは壁にヒビが入り、ボイラーが使えなくなるなどしたが、また功さんと父親が力を合わせて自力で直した。功さんは震災で被災したボートを譲り受け、自分で修繕するほどの“技術”を持っている。このため2週間ほど休んだだけで営業は再開できた。
しかし、他の旅館は違った。長期休業して、大規模修繕を行わなければならない宿が多かった。
それがようやく直ってきた頃、また福島県沖を震源とする地震に見舞われた。
2022年3月16日午後11時34分に震度5弱、その2分後に震度6強。
亀屋旅館の久田さんは「沖からゴーッという地鳴りがして、激しく揺れました。ああ、これで終わったかと胸を撫で下ろしていたら、さらにゴーッと地鳴りがして……」と話す。功さんは「自分がこれまで経験した中では最も大きな揺れでした」と語る。
相馬市内では「東日本大震災より2021年2月の方が揺れが激しく、2022年3月はさらに凄かった」と多くの人が証言する。被害も深刻だった。
両旅館とも鍵を掛けていたサッシのガラス戸が飛ぶように外れ、屋外に落ちて割れるなどした。
「最初の揺れの後、父が『大丈夫ですか』と客室に声を掛けて回っていた時に2度目の地震が起きました。すぐそばで壁がバーンと倒壊し、間一髪で免れました。客室では金庫やテレビが吹き飛びました。お客さんも父もケガがなかったのが不思議なぐらいでした」と功さんは話す。
津波注意報が出たので、すぐに高台へ避難し、客にはマイクロバスで夜明かしをしてもらった。