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「あの日、燃えながら流される家もありました」11年間で3度も襲った巨大地震…相馬市の旅館若旦那はなぜ“絶望”から立ち上がれたのか

「あの日、燃えながら流される家もありました」11年間で3度も襲った巨大地震…相馬市の旅館若旦那はなぜ“絶望”から立ち上がれたのか

福島県沖地震から1年。相馬市松川浦、起死回生の浜焼き#1

2023/03/19
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「あぁ、俺は死ぬんだな」

「ああ、俺は死ぬんだな」

 そう思ったが、なかなか浸水してこない。

 亀屋旅館は奇跡的に床下浸水で済んだ。県道から少し高い土地に建っていたのと、津波が市街地の方へ向かい、宿を直撃して来なかったからだと見られる。

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「他の旅館のように県道に面していたら、確実に命を落としていました」としみじみ語る。

 一緒にいた親類は車に飛び乗って逃げたので、津波に追いかけられながらもギリギリで助かったという。

 では、県道に面した旅館はどうなったのか。

 いさみやの管野功さんも、津波を軽く見ていた。

「揺れはこの世の終りかというぐらいでした。1度収まってから、また大きな横揺れが始まり、これがすごく長かったのです。私は厨房にいて、食器棚が倒れないように押さえていました」

 父親が「絶対に津波が来る」と言うので、家族と従業員はすぐに高台へ避難した。が、功さんは残った。

 宿泊の予約が満室だったからだ。「1月から3月にかけては相馬沖で本ズワイガニが獲れます。刺身、しゃぶしゃぶ、鍋などのフルコース料理が人気で、昼食の予約も、夜の泊まりもいっぱいでした。物が散乱した部屋を見て回り、予約客から電話があるかもしれないと待機していました」。

高台から松川浦を見る。津波は左の太平洋側から、県道を呑み込みながら、右の市街地方面へ押し寄せていった

 テレビをつけると、既に津波が到達した地区の映像が流れていた。相馬にも大津波警報が出ていて、「そろそろ逃げないとヤバイかな」と思っていた時に、高台に住んでいた親類が心配して迎えに来た。

 この段階で逃げればいいのに、2人で缶コーヒーを飲む。それからおもむろに軽トラックに乗った。松川浦沿いの県道を走り、すぐに右折して細い坂道を高台へ向かおうとしたが、ブロック塀が倒れていて通れなかった。次の坂道を右折すると、松川浦の方を見て「キャー」と悲鳴を上げている女性達がいた。後ろを見たら、今まさに曲がった県道を呑み込みながら、津波が市街地の方へ向かって行くのが見えた。「漁船がサーフィンのようにして流されていました」。

燃えながら流される家もあった。「松川浦は終わった、と思いました」

 高台へ逃げ切って見下ろすと、「家から何からどんどん流されていました。燃えながら流される家もありました。松川浦は終わった、と思いました」。

 旅館は床上1.3mほど浸水した。瓦礫が堆積し、泥も分厚く積もった県道は通れない。高台の細い道を伝って市中心部を目指し、中学校体育館に設けられた避難所へ入った。

 それから1週間ほど家族で身を寄せたが、発災翌日の3月12日から約40km離れた東京電力福島第一原子力発電所で爆発・火災事故が続いた。政府は原発から半径20km圏に避難、30km圏に屋内退避の指示を出し、そのエリア内となった隣の南相馬市では全市が大混乱に陥る。

 功さんは放射能という未知の脅威が怖かった。相馬市内でも放射線量が上がっていたので、体育館の外にはあまり出なかった。息が詰まり、気持ちが沈む。

 市内ではなかなか給油ができなくなっていたガソリンを知人が分けてくれたので、一家で山形県へ逃げることにした。避難所は山形県庁で紹介してもらった。

「もう、帰りたくありませんでした。『現実』を見たくなかったのです」

 だが、相馬市内に残っていた親類から「いつまで避難しているんだ。こちらでは復旧作業が始まっているぞ」と電話があり、山形県内には10日間いただけで戻った。