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 浜焼きはかつて松川浦の旅館などが軒先で行っていた名物だ。地物の海産物などを炭火で焼き、原釜尾浜海水浴場へ歩いていく客らに販売していた。福島県内では「松川浦」と言えば浜焼きを思い浮かべる人が多い。だが、次第に行う旅館が減り、最後まで焼いていたいさみやも震災でやめていた。これを震災から10年という節目に、「ガイドの会」で復活させていたのである。福島県沖地震で被災する前のことだ。

 浜焼き台は、津波に呑まれながらも、いさみやで奇跡的に生き延びたのが1台あった。経験者の功さんが、まるで泳いでいるかのように焼き上がる方法を伝授し、久田さんらも習熟してきたところだった。

「まだ旅館が営業できない状態だったので、皆やることがありません。でも、何かやらないと、私達も生きていけない。気持ちが落ち込んでいて、本当はやりたくなかったのですが……」と久田さんは話す。

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ホタテ。秘伝のタレが塗られている(相馬市、浜の駅松川浦に設営された浜焼きテント)

 被災から1カ月半後のゴールデンウィーク。「10日ぶっ通しでやってみよう」と、いさみやの前に浜焼き台を据えた。意気消沈しながらも、これだけのことができたのは若さだろうか。

 大勢の人が訪れた。これは若旦那達にとって想定外だった。

「イカだけで800杯も売れた日がありました。用意した材料はすぐになくなり、何度も何度も追加注文しました」

 10日間続けると、さすがに若旦那達もヘトヘトになった。が、心地よい充実感があり、腹の底から力がわいてくるのが実感できた。

11年で3度もの被災。しかし諦めてはいない

「地震の被害は深刻でも、やればなんとかなると分かったのです」と久田さんは語る。

 みなとやの管野芳正さんは、「ゴールデンウィークの浜焼きに参加するまでは、瓦礫拾い程度しか行っていなかったので、暗い気持ちでした。でも、いっぱいお客さんが来て、1時間半並んでも途中で帰りません。逆に『頑張ってね』と声を掛けられて、勇気づけられました」と話す。

 この賑わいが契機となり、「ガイドの会」は各地のイベントに招かれるようになる。

 芳正さんは「辛かった時にいろんな人とつながることができ、また頑張ろうと考えられるようになりました」と話す。「見捨てられた」感を拭い去ることができたのだろう。人は追い詰められた時、人とつながり合うことでこそ、次へ踏み出す力が得られるのかもしれない。

 相馬地方では毎年7月後半、1000年以上の歴史を持つ伝統行事・相馬野馬追(そうまのうまおい)がある。みなとやにはこれを見るために泊まりたいという団体から連絡があった。まだ、修繕には手を付けていなかったが、浜焼きを契機に前を向き始めていた芳正さんは申し込みを受けた。そして6月から突貫工事をして泊まれるように間に合わせた。

「まだ、風呂も半分しか直せない状態だったのに、お泊まりいただきました。浜焼きで力をもらっていなかったら、相馬野馬追に間に合わせて修繕しようなどとは考えもしなかったでしょう。旅館を再建できたのは、浜焼きがあったからです」と言い切る。

 11年間で3度もの被災。

 傷つき、くじけ、諦めかけていた人々に、浜焼きは力を与えたのである。(#2に続く)

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。