ところが、支払い業務が終わると、やることがなくなった。アパートは夫婦で郡山市内へ移ったので、同市のシルバー人材センターに会員として登録して、仕事をしようと考えた。派遣されたのは公園の清掃だった。「もっと違う仕事がやりたいのに」と思ったが、「5年間は派遣先を変えられない」と言われた。
そうした時に富岡町の社会福祉協議会が設立した避難者支援組織「おだがいさまセンター」で、染め物の教室が始まると聞いた。
避難当初は寝る場所にも困った住民だが、仮設住宅ができて入居する頃になると、特に高齢者はやることがなくなった。富岡町にいれば、農作業などで忙しい。だが、避難先では何もすることがなく、暗いことばかり考えてしまう。落ち込み、自室に閉じこもる人が増えた。
染め物は、そうした人々の生きがい対策として始まったのである。
耕一さんも参加した。作品を販売する工房を開くのが目的とされていたから、面白そうだった。30人ほどが集まり、「おだがいさま工房」と名付けて、藍染めや草木染めを行った。
初めての体験だったにもかかわらず、耕一さんはのめり込んだ。「手作りだから一つとして同じ染め物はできません。それが楽しくて、はまっていきました」。
工房としてこだわったのは、桜のデザインだ。
「富岡と言えば、桜だからです」と、耕一さんが説明する。
夜の森の桜並木は、町道の両側に計約420本が植えられ、満開時には見事な「桜のトンネル」になるエリアもある。
「桜」が帰りたくても帰れない町のシンボルに
春には桜まつりが行われ、多くの人が見に来る富岡町のシンボルだった。
原発事故前の町では、下水道のマンホールに桜があしらわれ、橋梁の親柱にも桜のデザインが施されていた。
避難で郡山市内に建てられた町役場のプレハブ仮設庁舎にも壁面に桜が大きく描かれた。
その後の町役場は、ことあるごとに桜を持ち出したので、避難でバラバラになった住民の「統合の象徴」としてイメージされるようになっていった。
帰りたくても帰れない町の象徴でもあった。
春になると当然のように咲いていた桜だ。原発事故前はいつでも見に行けた。「職場や友人で花見をした」と思い出を語る人が多い。ところが避難指示区域となり、自由に立ち入れなくなった。特に夜の森地区は富岡町内でも放射線量が高いとされ、人々の間では「二度と戻れないのではないか」という不安が高まった。
あれほど身近だった桜が、手の届かない存在になってしまったのである。
このため工房では、望郷の念を込めて桜をあしらった作品を作った。