「ジャガイモを植える準備をしていたので、見に行ったのです。すると近所に住む友人がやって来て、『何やってるんだ。役場が避難しろと言っているぞ』と教えてくれました」
富岡町は北に東電福島第一原発、南に東電福島第二原発がある。この二つの原子力発電所はいずれも危機的状況に陥っていた。東は太平洋に面しているので、町から逃げるには西の阿武隈高地を目指すしかない。富岡町役場は津波の被災者捜索も十分にできないまま、山深い川内村へ避難するよう住民に呼び掛けなければならなかった。
小野家の家族は、夫妻に加えて、繁子さんの母、長男、嫁、3歳と8カ月の子が2人。
最初は「2~3日で戻れる」と思っていた
繁子さんは「孫が小さいので、おむつやミルクの準備をしました。山の中の川内村は寒いからセーターも車に積み込みました。とりあえず食べる物をと、冷凍庫にあったおにぎりも持ったのですが、私達夫婦は着の身着のままでした」と振り返る。耕一さんは畑に出た作業着に長靴のまま、家族を乗せた乗用車のハンドルを握る。「2~3日で戻れる」と思っていた。
たどり着いた川内村で一夜を明かした。当時の富岡町の人口は約1万6000人。そのうちの半数が、人口約3000人の川内村に身を寄せたとされている。人があふれて居場所がなかった。そもそも避難指示区域が12日のうちに半径20km圏に拡大され、川内村も一部が含まれたことから、村自体が大混乱に陥っていた。
そこで、小野家は約70km離れた福島市に再避難。さらに千葉県にいる娘を頼って再々避難した。
福島県内へ戻ったのは4月になってからだ。息子の勤務先が仕事を再開したので、同県いわき市のアパートへ移った。ただし、被曝への懸念から、嫁と2人の孫はそのまま関東に残した。
一方、小野家が去った後の川内村も避難を強いられていた。政府は避難指示区域に加えて、屋内退避指示区域を設け、原発から半径30km圏を指定した。村はこのエリアに含まれてしまい、生活物資が届かなくなった。警察も退避してしまう。とても残っていられる状態ではなくなったのだ。
病気が流行し、始まった過酷な避難生活
川内村役場と富岡町役場は共同で約50km離れた郡山市の県施設「ビッグパレットふくしま」へ住民を引き連れて避難した。ここには両町村の約2500人が身を寄せたが、病気が流行るなどして、過酷な避難生活となった。
耕一さんはシルバー人材センターの会員への作業代支払いが終わっていなかったので、いわき市のアパートからビッグパレットに通い、泊り込みながら手続きを行った。