中国の大連から大分開拓団の集落までは、1,000km以上の道のり。福岡から東北に着くほどの距離だ。さらに、一面坡の駅から北に向かい、一家がたどり着いた場所は満州の北の果て、現在のロシアとの国境付近だった。
畑正憲さん:
夏の気温は、40度を超します。冬は、マイナス50度になる。全部、自分たちで耕して畑や田んぼを耕した、そういう土地だった
畑正憲さん:
1回、夜ね、そのころ、匪賊(ひぞく)って言っていたけど、今で言えばパルチザン(反乱者)のこと。とにかく撃ち合いになりましてね。全部、家の中に閉じ込められるんですよ。そうすると、掘りごたつがあって、掘りごたつの中にいるんですけど、震えが来るんですよね。ガタガタガタガタと、自分でもびっくりするくらい。ひゅひゅひゅるーと弾が来るんです。弾の音がするんです。撃たれた者もいた
畑正憲さん:
うちは医者だったから、全部、運ばれてきた。それで患者が来ると、診療室に置けないから、重症になると居間に来る。子どものいるところで、いろんなことが起きるから、生と死には触れっぱなし、それが日常になっていた
3年にもわたる満州での壮絶な生活。小学生になり家族や友だちと過ごしていた畑さんだが、小学2年生への進学を目前にした1944年3月に満州を去ることになる。兄の親幸さんが、内地(日本)の学校に進学するのを機に、父の実家がある大分・日田に兄弟だけで移ることになったのだ。
博多に向かう船で敵の潜水艦が…死の覚悟も
しかし、時は太平洋戦争の真っただ中。韓国・釜山(プサン)港から博多に向かう船で、畑さんは、さらなる戦争の恐怖を体験することになる。
畑正憲さん:
船員が来て、「みんな潜水艦が来ているから、敵の潜水艦だから、いつやられるかわからないから、こんなところにいちゃだめだ」って言って、みんな上がれって言って、全員、甲板に上がらされたんですよ。ばかでかい船の中に何百人も乗ってるんです。それが今度は座席争い、寄り掛かれて安心して波もよけられるような席を探すんですよ。でも、ない。寒いのなんのっちいうもんじゃないですね。本当に震えが来てね、でもお国のためだから仕方ないですね