畑正憲さん:
とにかく最後までわからなかったですよ、いつやられるかっていう覚悟はしていました。とにかく必死に耐えてたんです
死と隣り合わせの恐怖。結局、敵の潜水艦と遭遇することはなかったが、その時に目にした博多湾の景色は、今でも脳裏に鮮明に焼き付いているという。
畑正憲さん:
波が、ぱーっと静かでね、そこに島があるんですよ。それが、その島が白い砂で縁取られていて、松が生えてて。あれは目に染みましたね、それは。なんと日本は美しい国だろうと思いましたね。感激でいっぱいでしたね
「同級生、1人ぐらい帰ってきてるんじゃないか」
しかし、さらなる戦争の悲惨さを、畑さんは満州で終戦を迎えた父親たちから聞くことになる。ソ連の侵攻。それは突然だった。
畑正憲さん:
夜は寝られなかったって(言っていました)。「先生!先生!どんどんどんどん!」って扉をたたくんです。みんな乱暴されてるんです。だからその避妊のために、1日に3人も4人も、処置しなくてはいけなかったと、父は言っていました。ソ連軍も正規の軍隊ではなかった。入って来たのは囚人部隊だった、囚人を釈放して鉄砲を持たせて満州に送り込んだんです。僕は、本当に情けなくて、「この野郎」って思いますよ、話を聞くたびに
畑さんは、しばらく無言になった。その後、固く閉ざしていた口からようやく言葉を絞り出す。
畑正憲さん:
50年後、満州に住んでいたころの学校に行ったんですよ、小学校のときの。そうしたらね、学校が全然、跡形もなかった。それで壊れたレンガが山になってた。その中から拾ってきた石です
畑正憲さん:
その時の同級生が、戦後、1人ぐらい帰ってきてるんじゃないかと思って、一生懸命帰ってくる人ごとに「誰か消息を知りませんか」って聞くんですけど、だめだった…
そう言って、畑さんはゆっくりと首を横に振った。
「人類が一番やってはいけないのは戦争」
ソ連に近かった大分開拓団の集落。畑さんの家族は、敗戦前にソ連から離れた吉林省に移動していたため難を逃れたそうだ。しかし…。