世界中が核の炎に包まれていた可能性も…若かりし頃の池上彰さんが「ここで僕の人生も終わるのか」と思った歴史的瞬間を紹介。

 第三次世界大戦が起きかけた「1962年のキューバ危機」の思い出を、『世界史を変えたスパイたち』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

池上彰さんが「死ぬかと思った」1日とは ©文藝春秋 

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米ソが「核保有」に力を入れていた時代

 冷戦期の米ソは互いに核兵器を保有し、「恐怖の均衡」と呼ばれる状況を保っていました。つまり、お互いに核を持っているが、どちらかが核を使えば自国にも核を撃ち込まれ破滅することになるので、どちらも核を使えないのです。それゆえに、米ソはお互いの国に対してはもちろん、世界中を舞台に諜報合戦を繰り広げ、戦火を交えない形で相手の影響力や国力を削ごうとしたり、相手が次に打つ手を予測するための情報を得ようとしたりして争ってきたのです。

 大きな戦争が終わった後にもかかわらず、冷戦期がスパイの季節と言われるゆえんですね。そうした切迫した状態で起きたのが、1962年10月の「キューバ危機」です。事の発端は1962年10月16日、アメリカの偵察機がキューバでソ連軍の基地が建設され、核搭載可能なミサイルが運び込まれているのを発見したことに始まります。キューバにミサイルが配備されれば、アメリカ本土の大半がソ連の核の射程圏内に収まってしまいます。

©getty

 アメリカはソ連に届く位置にあるトルコにミサイル基地を持っていたので、ソ連はこれに対抗しようとしたのです。アメリカの情報機関は、当初「ソ連首相のフルシチョフは、キューバにミサイルを配備できるほど大胆な行動を取れる人物ではない」「ソ連の現地司令官は、核兵器の使用権限を与えられていない」と判断していたので、こうした兆候を見逃していたのです。のちに、これらの分析が間違っていたことが、ソ連側の文書によって明らかになっています。

 アメリカの偵察機がキューバのミサイル基地を発見できたのには、オレグ・ペンコフスキーという人物がかかわっています。ペンコフスキーは、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)の大佐でありながら、アメリカ・イギリスに機密情報を流し続けたスパイでした。

米英に機密情報を流し続けたオレグ・ペンコフスキー(右)©getty

 ソ連の体制に失望し、自らアメリカのスパイになることを申し出た人物です。彼が西側のスパイとしてソ連の情報を提供したいと申し出たため、イギリスのMI6は、商用でしばしばモスクワに出張していたイギリス人セールスマンのグレビル・ウィンに情報の運び屋になるように依頼。ウィンはモスクワで密かにペンコフスキーから情報を預かり、ロンドンに運んでいました。