撮影、“全て挑戦”
人生を振り返ると、私は、人との不思議な縁と出会いによって導かれ、人生が大きく変わっていきました。
赤坂の「ニューラテンクォーター」という社交場で洗車のバイトをしていた時のことです。
「君は今何を目指しているの」
ある紳士にそう聞かれ「俳優養成所に通っています」と答えました。実は、その紳士が当時大女優だった方の御父様だった。そこから松竹のプロデューサーに紹介され、松竹映画のニューフェイスとしてデビューすることになったのです。1965年、19歳の頃のことでした。
ただ、当時の松竹は、女優王国。私のデビューしたころには岩下志麻さんや香山美子さんらがいらっしゃいました。会社は女優に力点を置いていた。作品はいわゆる「文芸路線」や青春恋愛モノが多く、主演作も数本撮りましたが、どこか不完全燃焼でした。自分の内に秘めたワイルドな部分を、もっと表現したい。なのに、自分の思いとは別の方向に向かっているように思えて。
自分らしさを求め、思いあぐねていた時に、ある恩人に紹介され、それが「仮面ライダー」のオーディションでした。
身体を使って飛んだり跳ねたりするアクション作品だと聞き、とても興味が湧いた。私が紹介されたときには、他の俳優を主役に起用することが決まりかけていたと聞きます。これまで生きるために培ってきた柔道と大型自動二輪の免許があったから、主演に抜擢していただけたのかもしれません。
ただ、出演をめぐっては大きなハードルがありました。当時は五社協定というのがあって、映画会社大手五社の間で所属俳優の引き抜きは御法度でした。松竹と契約が残っている私が東映作品の仕事を受けることが困難だったのです。そんな中、恩ある方がかけあってくれたおかげで、私は五社協定の壁を越えて出演可能になったのです。
撮影は、何もかもが手探りの状態からはじまり、私は、撮影の“実験台”みたいなものでした。
毎日が命がけで恐怖との闘い。アクションシーンはスタントマンなしで、私自身が、仮面をかぶり、スーツを着て演じました。万博公園の階段をバイクに乗って駆け上り、六甲山のロープウェイに命綱一本でしがみつき、やっと掴んだテレビの初主演。無謀なことにも挑戦するしかなかった。
最初は、いざ変身すると、仮面は重く、視界が悪い。その状態でアクションもやるしバイクにも乗る。私の未熟さで誤ってショッカーにパンチやキックが入ってしまい本当に申し訳ないことをした。レザー製のスーツは、汗を吸い込むと締まり、窮屈になって動きづらい。その後、小道具さんたちの努力によって、ハードな芝居に対応できる仮面とスーツに徐々に改良されていきました。
ライダーのバイク、サイクロン号は走るためではなく、見た目重視でいたるところに装飾が施されていた。車体後部に計6本のマフラーを搭載していたので重心が後ろにかかってバランスが取れない。さらに当時は高度経済成長期で、ロケをする郊外は、どこも工事中。道路には大型トラックが落としていった砂利と砂が無数に転がっていた。コーナーを通るときはよけるのが困難で怖かった。「いつかヤバイことが起こる」と、嫌な予感はありました。
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「仮面ライダーと私」全文は、「文藝春秋」2023年5月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
仮面ライダーと私
【文藝春秋 目次】私の人生を決めた本 藤原正彦×林真理子、鈴木敏夫、山根基世、角川春樹、成田悠輔ほか/岸田文雄×岡藤正広×中野信子「脳波鼎談」
2023年5月号
2023年4月10日 発売
特別定価1100円(税込)