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家広 お経をあげていただいたり、ほかにはお香の奉納などを行いました。香道の二大流派である御家流と志野流に一緒にお香を焚いていただき、天と地を繋ぐ。続いて、当主の証となる品の受け渡しをして、過去と現在を繋ぎました。全部で大体1時間ほどだったでしょうか。江戸火消しの皆さまによるはしご乗りなどの特別演舞もありました。

――代替わりが60年ぶりということは、「継宗の儀」も60年ぶりですか?

家広 17、18代当主は先代が亡くなって継いだので、式典はなかったんですよ。そして16代は明治維新でそれどころではなかった。なので実は「継宗の儀」がこういう形で行われるのは今回が初めてなんです。

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――じゃあ何をどうやるか、どのように決めたんですか?

家広 それぞれの立場の人の「なんとなくこういう感じじゃないか」というイメージを持ち寄ってみると、結構しっくり来ました。ちゃんと記録をとったので、これからの「継宗の儀」は今回のものをひな形に行われることでしょう。

戦中・戦後はひもじい思いをした徳川家

――小さな頃から、「いずれ徳川宗家を継ぐ存在」として教育を受けるのでしょうか?

家広 日本では多くの場合、長子が家を継ぎ、先祖代々のお墓を管理したりする立場になります。でも長子だからといって子どもが小さな頃から「あなたは〇〇家を継ぐ存在なんだ」とわざわざ言い聞かせたりはしませんよね。それは徳川家にかぎらず、ほとんどのお家で同じことだと思います。

小さい頃は「好き嫌いするな」と叱られたことも ©文藝春秋

――では、徳川家ならではのしつけのようなものはあまりない?

家広 特には、ありませんでした。ただ一つ強烈にしつけられたことがありましたが、それは解説が必要と思います。

 祖父の松平一郎は銀行マンで、戦時中はシンガポールに赴任し、大東亜共栄圏の為替の業務を担当していました。海外勤務で単身赴任だったわけですが、日本に残された妻子は社内の配給網から外されてしまい、家には食べ物がありませんでした。着物を売って、なんとか生活していたと聞いています。

 祖母の松平豊子は17代当主・家正の長女でしたが、あくまでよそに嫁いだ身なので「実家の敷居をまたいではいけない」と言われ、徳川家を頼れなかったのでしょう。だから父は子どもの頃にひもじい思いをしたそうで、私が食べ物を残すと、「好き嫌いするな」と叱られたものです。まぁ昭和のよくある家庭の風景ですよね。

家広氏の父親で、先代当主の徳川恒孝氏 ©文藝春秋

――千駄ヶ谷の東京体育館のあるところが全部、昔は徳川邸だったと聞きました。