生きるか死ぬかの境界線をさまよい…
その後も生きるか死ぬかの境界線をさまよいながらベースキャンプに向かって歩き続けた。ベースキャンプに到着したのは、泰史が先だった。泰史はキッチンボーイに、「妙子を迎えに行ってくれ」と告げた。二人がどれほど消耗し、生死をさまよったか筆舌に尽くしがたいが、ネパールに戻るときのエピソードもすさまじい。
ベースキャンプで体を温めてもらい、食べ物はまったく受け付けなかったけれど、水分を補給し、ランドクルーザーに乗り込んで、陸路をネパールへと南下した。国境に流れる川にはコダリとダムを結ぶ友好橋という大きな橋が架かっている。橋の両側のたもとにイミグレーションオフィスがあり、中国チベット自治区からの出国とネパールへの入国手続きをするのだ。手続き自体はスタッフに任せるとしても、国境である橋は車から降りて歩いて渡らなければならない。そのとき、泰史も妙子も歩くことすらできなかった。凍傷で足が痛いだけでなく、立ち上がって歩く体力が残っていなかった。当時は比較的、人の往来が多い国境であった(平成27年のネパール地震以来閉鎖)。ネパール人やチベット人、中国人が歩いて行き交うなか、200mほどだろうか、這って橋を渡った。
生きるため、また登るためのリハビリ
帰国後、泰史も妙子も指を切断することになる。妙子については、わずかに残っていた両手の指をほとんど失った。それでも二人を病室に見舞ったとき、ことのほか元気だったのを覚えている。どん底は脱した。あとは前に進むしかない。そういう思いだったのだろう。泰史は歩行にも苦労していたが、妙子は足の凍傷は軽症で難なく歩けたので、入院中も階段の上り下りやベッドの上での腹筋背筋運動に精を出した。
退院後はすぐに家事に取りかかり、包丁を握ろうと試みた。その一途な姿に、私は胸が熱くなるときがあった。「私がつくるよ」と台所に立っても、妙子は無言で包丁を握る。野菜を切ろうとするのだけれど、うまくいかず包丁を床に落とすこともあった。脇にいた私も妙子も、床に落ちる包丁を避けるために、さっと身を引く。いまとなっては笑い話だが、すさまじい。泰史は部屋の鴨居にぶら下がろうとしたり、畳に座りながらアックスを握ったりして、回復を試みていた。妙子は泰史のようなリハビリはあまりしないのだけれど、ともかく家事のあれこれを、ちゃんとやろうとした。それが、彼女の生きるための、そして登るためのリハビリになったのだと思う。