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「3回死んでいてもおかしくない」両手の指をほとんど失い、壮絶な登山を経験した女性が“生き延びたワケ”

『彼女たちの山』#2

2023/05/05
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 山を駆けた女性たちの軌跡をたどり、平成の30年間を振り返る貴重な記録『彼女たちの山 平成の時代、女性はどう山を登ったか』(柏澄子著、山と渓谷社)。登山の世界で活躍した山野井妙子氏の壮絶な経験について、夫妻へのインタビューから一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/前編から続く)

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遭難の翌年、四川省へ

 時期は前後するが、ギャチュンカン(中国チベット自治区)遭難の翌年の平成15(03)年から2年間、山野井夫妻と私で四川省への旅が続いた。初年は、四川省北部のダオチェン周辺のトレッキング。山を見ながら5000m近い峠を越え、空気の薄い土地でボルダリングをした。泰史は足の凍傷の傷が癒えておらず苦しんでいたが、妙子の傷はほとんど回復していた。旅の終盤、泰史がグリベルのカタログで見て心に残っているという岩峰を探すべく、スークーニャンのある山域へ向かった。四川省の友人の手助けもあって、みごとその岩峰であるポタラ峰を見つけることができた。一方で妙子は、隣の岩壁に目をつけていた。

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 翌平成16(04)年、チョ・オユー以来の遠藤由加も加わって再訪するが、天候に恵まれず完登はならなかった。平成17(05)年は泰史のポタラ峰のベースキャンプを守るために、妙子も再訪した。

山野井妙子、山野井泰史夫妻 ©文藝春秋

いまを見つめ、この先に向かう

 こんなふうに、いっとき私は、山野井夫妻とかなり密に行動を共にしていた。毎週のように国内の岩場や山に行ったり、四川省に行ったり。一緒に山に登り旅をして、料理をして飯を食うなかで、ときどき妙子が手足の指がなく不便をしているのを忘れそうになる。ほとんど意識していない。けれど、ふとしたときに思い起こすのだ。たとえば、かりんとうが入っているような袋を、開けることができない。ビレイ点でザックを開けて必要なものを取り出そうとしたときに、手の感覚が鈍いために触っただけではどんな荷物かわからず、目視しないといけない。けれど私は妙子の身体的なことは妙子の特徴の一つであると思っていた。自然とそう思った。人それぞれに身体的あるいは精神的な特徴があるように、妙子のそれも、彼女がもつあまたある特徴のうちの一つなのだと。